は、世界的に特殊な現象とされている(注24)。商品としてのアンブロタイプが明治7年頃の場合一枚25銭、紙焼きはその倍の50銭ほどしたことを考慮すれば、アンブロタイプを選ぶことで割安に自らの肖像写真を求められたことがわかる(注25)。その約20年後の明治28年、東京で最も写真館の多かった浅草では「硝子撮し」は小さなもので6銭、対して三枚組の手札版写真は3年後の明治31年には20〜50銭程したという(注26)。感光紙に画像を焼きつける作業が省けることから安価となることや、即席に仕上げることのできるという簡便性からこの技法が選ばれたことも要因として挙げられる一方、ここで注目したいのはアンブロタイプの非複製性という側面である。紙焼き写真と異なり、ネガ画像の映るガラス板を反転させてポジ画像とするアンブロタイプは、いわば唯一無二の「一点もの」である。アンブロタイプという鑑賞形態を選択する限り、写真のマス複製の技術的可能性を無効にさせることとなる。つまり、イメージの真正性とならんで写真メディアの特質である「複製技術」としての写真の側面については、一般庶民の肖像写真では回避されていたことになる。この写真実践における人のイメージの複製性の回避について、別の角度から考察を加えてみよう。日本視覚文化史において、仏教思想における女性の罪障観念や儒教的観点から女性の被肖性が制限され、イメージの可視化にあたって最も制約の多かったのは女性であった(注27)。あらゆるものを可視化する視覚メディア、そして可視化されたイメージを増殖させる複製性という写真の特性を考えるとき、明治期において女性と写真との関係が最も緊張したものであったことは容易に想像できるだろう。ここで興味深いことは、写真を写すため明治期に写真館を訪れた者は主として上流階級か力士、俳優、芸妓などの人気稼業の人々が多く、また慶応2年に開業した熊本市の富重写真所では、撮影台帳の記録によると明治22年から翌年までの撮影客の97%は男性、僅か3%が女性であり、また女性客の内ほとんどが芸者か遊女といった「玄人」であったという(注28)。現存する史料が極めて限られているという制約はあるものの、これまで写真の普及が一元的に把握されてきた日本初期写真史の言説により隠されてきた、被写体としての女性と写真との関係性について考えてみる必要があるだろう。女性の肖像は実在女性を像主としたものが中世登場して以降、描かれた肖像画の像主は高位の女性が主流であった(注29)。またそうした肖像画が「鑑賞」される時と場は限定されたものであり、描かれた人物を死後偲ぶための供養像として限られた時期に飾られ、祭祀的な役割を果たすものがほとんどであった。写真の登場以前、女性― 199 ―
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