肖像画自体の露出は極めて少なかったと言ってよいだろう。一方で、寛永期以降制作された特定人物を描いた肉筆美人画の存在や、浮世絵にみられる美人画の大流行という現象とが併行していたことも、写真登場以前における女性肖像画をめぐる状況の特殊性の一面をなしている。浮世絵美人画に代表される不特定多数の鑑賞の対象となった肖像画の系譜を考えるとき、複製・可視化装置としての写真が、手札判写真としてまさにこの分野で浮世絵の役割を担うようになったことは興味深い。ここで注目すべき点は、複製技術としての写真を利用したのは商品化された「玄人」女性であったことである。また、不特定多数のまなざしに対する女性の可視性が女性の商品化の文脈と関連づけられていたことも、重要な点である。明治期の女性の場合、女性にとってこの問題は軽視することのできないものであった。慶応年間に撮影された上野彦馬の写真が現存しているが、写真にうつる女性たちの顔の部分が傷つけられ消し去られたのは、まさに象徴的である(注30)。江戸・明治期を通じ、自らの姿を視覚化させることで露出しマスメディアを媒体として広く流通させることを容認してきたのは、自らの女性性を売り物とし、自らの姿・容貌を不特定多数の眼前に露出するという可視化された状況に置かれた女性である、玄人女性に限定されていた。17世紀以降美人画という形で玄人女性を主としたモチーフとして流通していた浮世絵は、女性イメージの露出、欲望のまなざし、そして(玄人女性自身を含む)消費財のマーケティングをめぐった「欲望の力学」を統合する装置であった。こうした玄人女性の視覚メディア上における「可視化パフォーマンス」は近代的視覚メディアに場を移して継続される。東京・千住の遊郭で明治10年頃までに張見世が廃止され、その代替として遊女の肖像写真を店前に掲げる写真見世が導入されたことが象徴するように、写真メディアやリトグラフ、コロタイプによる写真印刷といったメディアを媒介として玄人女性のイメージは増殖を続けていく。自らの姿が視覚メディアを媒介に可視化され不特定多数の眼にさらされるということは、自らの身体を欲望のまなざしの前にさらけ出すことと同義とされた観念は、明治末期まで根強く残った。大衆誌『文藝倶楽部』誌上での樋口一葉の肖像写真掲載が巻き起こしたスキャンダルがその一例である〔図7〕(注31)。明治40年に時事新報社が主催した美人コンテストの優勝者となった、当時女子学習院の学生が退学処分となったのも、優勝者の写真審査用肖像写真が新聞・雑誌に掲載、さらには入賞者の写真とともに『日本美人貼』として全国的に発売されたことによるものであった(注32)。明治期においてアンブロタイプが長きにわたり使用されたことや、紙焼きの手札判写真と比較して現存するアンブロタイプに素人女性の肖像が多く存在するという事実は、桐箱におさめられた鑑賞形態その写真以前の一点物― 200 ―
元のページ ../index.html#210