鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴ 南ネーデルラントにおける新教徒カルヴァン派の最後の拠点となっていたアントウェルペンは、1585年、スペインにより陥落し、住民はカトリックの遵守か退去かを迫られ、大商人や職人、画家を含む市民の40%がオランダの各都市に移住した。そのひとり、素描家であり銅版画家であった、クラース・ヤンスゾーン・フィッセル(1586−1652)は地図と風景版画の両方を手がけ、また自らも出版することで17世紀の「地誌的」な風景の展開に大きく寄与した。Levesque, Catherine, Journey Through Landscape in Seventeenth-Century Holland, The Haarlem Print Series and Dutch Identity, Pennsylvania, 1994.;Gibson, Walter S., Pleasant Places, The Rustic Landscape from Bruegel to Ruisdael, Berkeley, Los Angels, London, 2000.⑵ Levesque, op.cit., 1994 ; Gibson, op.cit., 2000はともに、16世後半の風景表現の展開については、1章をあてて考察している。16−17世紀にかけての地誌的な表現の展開については以下の文献に詳しい。Le Peintre et l’arpenteur, Images de Bruxelles et de l’ancien duché de Brabant, exhibition catalogue, Musée royaux des Beaux-Arts de Belgique, Bruxelles, 2000.⑶ プトレマイオスの著作では特定の地域(khoros)の描写(graphe)からなるkhorographiaという語が用いられているが、この語は地図や風景の地誌的な要素を言及する論においては(1555−56年頃)〔図11〕と比較することで両者の違いはより明確になるであろう。同じく馬車のモチーフを前景に大きく描いているフリマールの作例〔図8、9〕に顕著なように、これらの油彩画では、各モチーフが意識的に背景の都市景観へと結びつけられることで、世界風景の図式をとりながらも、ある意味「特定化」された景観として特徴づけられることが可能となっているのである。4.おわりに最後に、これらの油彩画が登場する時期が、1570年代後半というアントウェルペンが事実上衰退していく時期と重なっている点を指摘しておきたい。メッヘレンに生まれたハンス・ボルは1572年のスペインによる同市の占拠に際して、アントウェルペンに移住し、先に挙げたようなアントウェルペンの都市景観を含む作例を描いた。一方ヤーコプ・フリマールは、1546年にアントウェルペンの聖ルカ組合に登録し、1590年に没するまで同地で過ごした。実際1576年のスペイン兵の襲撃以降、1585年にスペインにより都市が陥落するまでの間、アントウェルペンは都市の生命を左右する一連の出来事に見舞われていた。この時期に描かれたアントウェルペンの都市の景観を背景とした一連の作品は、一つには都市を離れることを余儀なくされた人々への需要があったことが推察されよう(注25)。とりわけ都市の庇護下にある田園での庶民の平和な暮らしや市民の憩う様子をクローズ・アップして前景に描いた「都市─田園」型構図の油彩作品には、都市の平和への祈りや郷愁の念が如実に感じられるのである。― 213 ―

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