鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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─20世紀写真の受容研究─研 究 者:工学院大学、駿河台大学、法政大学 兼任講師 佐々木 悠 介1.本研究の背景と概略アメリカ合衆国が大恐慌の只中にあった1933年、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊は、フランスの無名写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンの個展を開いた(注1)。この展覧会はカルティエ=ブレッソンにとって初めての個展であると同時に、彼が公に自分の作品を発表した、実質的に初めての機会でもあった。のちにフランスを代表する写真家、そして二十世紀最大の写真家とも呼ばれるこの写真家は、まさにこの年、パリではなくニューヨークで、写真家としての第一歩を踏み出したことになる。彼の名前が美術史の上で次に登場するのは、戦後の1947年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の「カルティエ=ブレッソン」展である。これは事実上、カルティエ=ブレッソンにとって初めての、本格的な美術館での展覧会となったが、企画の最初の段階では彼は戦争中に亡くなったと思われていたために、「追悼=回顧展」になるはずだった(注2)。ところが企画の最中に本人の生存が確認され、結局、写真家自身が図版の選択をやり直すことになった。このことはいくつかの点で興味深い。すなわち、当時まだほとんど名前を知られていなかったカルティエ=ブレッソンを、ニューヨークの美術関係者の一部はすでに知っており、さらにその芸術的重要性を認識していたということ、パリの美術界ではいまだ無名だったカルティエ=ブレッソンを、ニューヨークでは大美術館が「回顧展」を企画するという米仏での受容状況の違いがあったということ、それからもう一つは、この時期に(仮にカルティエ=ブレッソン本人が出てこなかったとしても)MoMAで展覧会を企画できるほどの数の図版が、すでにニューヨークにあったということである。この時、MoMAでこの展覧会を企画したボーモント・ニューホール夫妻は当初、30年代にジュリアン・レヴィ画廊の展覧会で展示された図版を主に展示するつもりだったようだ。これらの事実から考えて、1930年代のレヴィ画廊の展覧会が、ごく一部であれ、ニューヨーク美術界に印象を残すものであったこと、そしてそれなりの数の図版を備えたものであったことがわかる。ところで、この1930年代前半と1940年代後半のニューヨークというのは、美術史の上で極めて大きな意味を持っている。大恐慌に見舞われていた30年代アメリカでは、逆にそれゆえにこそ、芸術の庇護者たる財界の発言力が弱まり、若手の芸術家やレヴ― 218 ―⑳カルティエ=ブレッソンをめぐる言説

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