鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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ィのような駆け出しのギャラリストが好き勝手なことをできる空気があった。そんな中でレヴィの画廊は32年に開かれ、今日では、フランスのシュルレアリスム美術をアメリカに紹介する中心的な役割を果たしたという点で、徐々にその重要性が認められつつある。これにたいして、第二次大戦後の40年代後半は、抽象表現主義を看板にして、ニューヨークの美術界が現代美術の主導権をパリから奪っていこうとする時期にあたる。まだ「職業写真家」と言えるかどうかも曖昧な、童顔でやせっぽちで、下手の横好きで絵も描くフランス人青年は、この極めて重要な二つの時期に、ニューヨークから美術界に名のりをあげたのである。年代的にこれらに挟まれた『ア・ラ・ソヴェット』という写真集については、表紙をマティスが描いたということからもわかるとおり、本来は、美術界に対する若い写真家の野心を秘めたものであった。ところが近年の研究で指摘されてきたとおり(注4)、この写真集の英語版の題名 The Decisive Moment、および序文の英語訳には、意図的とも言える誤訳、改竄があり、それによってカルティエ=ブレッソンという写真家の美学が、もともとの意図とは異なった形で提示され、受け取られてきた。現在では彼の代名詞とも言える〈決定的瞬間〉という言葉はここから生まれたのであり、それが、これ以降の彼の評価を決定づけることになった。さらには、この〈決定的瞬間〉という言葉そのものが、この写真集から離れて一人歩きを始めたことで、さらに読み換えられているということも否定できない。ここで、40年代後半からの数年間には、MoMAの展覧会の他にもカルティエ=ブレッソンの経歴上の転機となる事柄がいくつか見つかる。同じ47年に彼はロバート・キャパらと写真家のエージェンシー「マグナム」を組織し、さらに1952年には写真集 Images à lasauvette(注3)(以下、本稿では『ア・ラ・ソヴェット』と略記)を刊行、1955年にはMoMAでスタイケンが企画した「人間家族」展に出品する。こうした事柄は、一見、カルティエ=ブレッソンの知名度を高め、写真家としての地位を確固たるものにするという意味では一つの流れに沿ったものに見えてしまうが、実際のところはもう少し複雑であった。47年の展覧会が明らかに美術の世界へのベクトルを持っていたとして、同年のマグナムへの参加はこれとは意味合いが異なっていた。後年、このことを彼自身がどのように総括したにせよ、これ以後、職業写真家としてジャーナリズムに加担していくことになったのは明らかである。そして55年の「人間家族」展は、47年の展覧会と同じMoMAで行われたとは言え、一枚一枚の写真に与えられたのは美術作品としての位置づけではなく、無数の記録、証言の一断片という意味合いであった。― 219 ―

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