鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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ほとんどその内実が知られていなかったチャイナタウンの有様を、中国語を解するらしいゴー・ユン・レオンという人物がまさにルポルタージュのスタイルで書いたもので、アメリカ各地のチャイナタウンで撮られた多くの図版が含まれており、ごく一部の例外を除いて、クライトン・ピートという写真家が撮影したことが明記されている。もっとも、この本自体はレヴィ画廊の展覧会よりも後のものだが、ここから推測するに、こうした記録写真の類を撮っていた写真家だと思われる。しかしこの展示に関して挙がっている写真家の名前を概観する時、意外な感じを覚えるのは、たとえばエヴァンズやアボットとマン・レイのように、現在では異なるスタイルの写真家とみなされている顔ぶれが同時に挙がっていることであろう。もしかしたらレヴィはこれらの写真家ないし作品の選択にはあまり厳密ではなかったのかも知れない。これはあくまでもカルティエ=ブレッソンの写真をニューヨークの美術界に理解させるための参照項として出された色合いが強いのである。しかしもう一つ考えなければならないのは、これらの写真家じたいについても、(カルティエ=ブレッソンの場合と同様に)のちに彼らが獲得した評価やイメージと、当時レヴィが展示した作品のスタイルや位置づけが異なっている可能性があるということだろう。中でも忘れてはならないのは、35年展で〈アンチ=グラフィック〉を体現するものとしてカルティエ=ブレッソンとともに展示されることになる、ウォーカー・エヴァンズである。エヴァンズはその後、1935年からアメリカ再定住局ResettlementAdministrationの依頼によって、農村部の撮影(後年、FSAプロジェクトとして知られることになる)を精力的に行う。またいっぽうで、リンカン・カースティンの強いバックアップを受けて、MoMAとの関係を築き、1938年には個展を開催したほか、彼の代表作の一つとされる写真集、『アメリカ写真』を刊行する(注7)。この『アメリカ写真』という写真集は、極めて奇妙な構成を持っている。というのも、彼が趣味的に(と敢えて言うのは、つまり30年代のエヴァンズの街頭写真が商売にはなっていなかったからだが)撮った写真と、FSAのプロジェクトのために撮影したものが混じっており、それらの別とは関係なく、全体が大きく二部構成に分けられているのである。しかも、この写真集にはリンカン・カースティンが力のこもった写真論兼エヴァンズ論を寄せており、当時まだ低かったエヴァンズの知名度を考えれば、この写真家を世の中に紹介する側面も持っているはずでありながら、FSAのプロジェクトのことには一言も触れられていないことである。FSAのプロジェクトの写真は、そもそも、農村の悲惨な現状を記録し、世間に伝えるという使命、言ってみれば意義づけを最初から背負っていた。しかしこの『アメリカ写真』は、FSA関連の写真― 222 ―

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