研 究 者:熊本市美術文化振興財団 主査 熊本市現代美術館 学芸員 はじめに松本喜三郎(1825−1891)は新しいジャンルとして「活人形」を打ち出した。写実性が高く、人間の生の感情を表現したかのような等身大の木彫像で、有名な物語や世相を映した場面を弁士の語りとともに楽しむ娯楽であり、着物、髪型、装飾品から新しい流行が生まれるほどであった。また1872年に大学東校の依頼により人体模型を製作、1873年ウィーン万博にも「骨格連環」を出品している。一方の安本亀八(1826−1900)は、1857年に生人形の初興行を行ったが、1860−70年頃は近畿地方で肖像彫刻を制作しながら彷徨し、再び1870年からの約二十年間、生人形興行をした。三男の亀三郎(1868−1946)が三代目を引き継ぎ、その後は百貨店のマネキン人形が主流となった。この二大生人形師が見世物興行で活躍した19世紀後半は、お雇い外国人や欧米の商社が増え、海外との繋がりが拡大した時期である。欧米では博物館の設立や拡大が進められ、生人形が展示のマネキンとして購入され、1905−10年頃が生人形の展示用マネキンとしての流通の最盛期となった。本稿では1870−90年代の三つのミュージアムの事例を取り上げ、収蔵の経緯に関わる資料を解読し、生人形の制作状況や、日本在住の欧米人、商社を介した流通の背景を明らかにし、海外の博物館での受容について考察を進めていきたい。1.デンマーク国立博物館デンマーク国立博物館では、日本コレクションの中に登録番号A842のもと、女性像一体、人力車一台、書簡三通が現存する。女性像〔図1〕は、人力車に座る女性として制作されており、上半身、脚、腕、下駄のパーツから成る。頭部から腰部までは木製で、上半身のみで安定するように腰の下部は平らに作られている。腹部前方に脚の接合のための長方形の差し込み穴が二か1854年熊本市出身の松本喜三郎が「活人形」を発表し、大人気の見世物の幕開けとなった(注1)。その三年後に同じく熊本市生まれの安本亀八も興行を始め、三十年にわたり二大生人形師が活躍したが、次第にパノラマ館、珍動物などへ人気が移り、生人形は衰退し忘れ去られていった。― 228 ― 本 田 代志子 生人形と博物館展示
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