前半頃には見られる形式と思われる。Ⅲ類は1127年の紀年銘を有する江西省務源張氏墓からその出土例が確認されている(注8)。Ⅳ類は1195年から1199年の紀年銘を有する江蘇江浦張同之墓(注9)や1205年の江西樟樹市牛山南宋開禧元年墓(注10)、1211年の江西省務源石田村汪賡妻程宝睦墓(注11)、1237−54年の江西吉水張重四墓など(注12)の事例があることから、12世紀から13世紀前半くらいに中国の東南部地域で流行していたと考えられる。また石坑窯址ではⅣ類も焼造している。当該窯址は正式な発掘は行われていないが、製品と匣鉢が融着したものの中に龍泉窯青磁を模倣した青磁とⅣ類の黒釉碗のものが見られる。龍泉窯青磁を模倣した青磁碗は1162年の銘をもつ南宋前期頃の沈没船である華光礁1号沈船から出水している。それらは同じく龍泉窯青磁を模倣した南安窯の青磁の特徴と同様に、外面に数条の単位の櫛描文が刻花されている。この匣鉢に融着した資料は残念ながら実見できなかったが、踏査時にほぼ同じ特徴をもつ青磁を実見することができた〔図3〕。釉薬が外面底部までかけられていない特徴などは南安窯の青磁とほぼ同時期の特徴をもっているといえる。このことからもやはりⅣ類は12世紀中頃におもに焼造されていたことになる。Ⅵ類についてはその形態的特徴からⅢ類に連続するものと思われるが、実年代を想定できるような詳細な事例は今のところは不明である。次にⅤ類以降に関して見ていく。現在のところ紀年銘をもつ墓による出土例はない。しかしその形態的特徴がⅣ類の建盞形をより誇張した形であることから形式的にはⅣ類を遡ることはないと思われる。主に福清石坑窯址や閩侯の古窯址での焼造事例が多く見られる。比較的長い間焼造された可能性がある形式のものであると思われる。石坑窯や閩侯で黒釉と合わせて焼造される青磁類は南宋代に特徴をもつものが多いことから13世紀頃を中心に焼造されたものと想定される。しかし、茶洋窯址ではⅧ類を焼造している安后山窯址地点から検出されているのでⅤ類はだいぶ長い期間、つまり14世紀に入っても焼造し続けていた可能性も考えておきたい(注13)。Ⅷ類については、茶洋窯で主に焼造されているほか、福清石坑窯でも散見される。発掘報告者は、Ⅶ類とⅧ類について、主に焼造される安后山窯址地点において福建地域に見られる元代の特徴をもつ青白磁碗や香炉が出土していること、またⅧ類が韓国の新安沈船(1323年銘)からも検出されていることから元時代と捉えている。上限に関しては14世紀前半になるものと思われる(注14)。現在、中国国内の資料で下限を考える資料は管見にない。先述したように博多遺跡群や沖縄の首里城二階殿遺跡等でも14世紀後半から15世紀前半に多く見られる。またⅧ類は福建域内の都市遺跡でもあまり数多く出土しないことからも、日本向けへの輸出品として専門に焼造していた可能性も高いことが指摘されており(注15)、その焼造年代に― 14 ―
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