物館に登録記録は残されていない。扇子については同館に数点収蔵されているが、この番号に属するものかどうかの特定には至らなかった。この書簡より生人形流通の一背景が明らかとなった。差出人のH. M. フライシャーはノルウェー出身で、1869年にクニフラー商会勤務のため長崎に到着した。数年間日本を離れていたが、1876年に長崎に戻り、保険代理業務を始めたとされる。「TheJapan Directory for Nagasaki」1877年版ではデンマーク領事、1881年版では同領事代理(Acting Consul)と記載されている。領事としての業務は副次的であったと思われ、ドイツ・ロイド社、オランダ・インド海上火災保険会社バタヴィア、バーゼル運送保険会社などの5社の保険代理業務の記録が残る。1878年、1881年版においては提携会社の変更や追加が記され、1882年には死亡し長崎に埋葬され、1882年版には商人とのみ記載されている。この二通の書簡はいずれもコペンハーゲンの外交官ユリウス・シック宛てのものである。シックは1870年に日本に駐在し電信敷設の交渉を進めた。その間に美術品を収集、帰国後に公開するなど、デンマークにおいて日本コレクションを形成、公開した最初の人物であった。日本では、横浜でデンマーク領事を務め、収集家であったスイス人の生糸輸出業者E. deバヴィエ (Eduard de Bavier)の助けを得ていたとされる(注3)。これらの作品の輸送に関して検証してみると、アキレス号を所有する英国のアルフレッド・ホルトのオーシャン汽船(Ocean Steam Ship)社は当時中国とロンドンを65日で結んでいたとされており、今回の資料の1月18日付書簡にて長崎で発送完了の報告から、4月1日付の発送確認までの期間が約七十日であることから、滞りなく輸送されていたことが推測できる。また、二通目の差出人のマイヤーとは、中国や日本との取引を行っていたヨハネス・マイヤー(Johannes Meyer)を代表とするJohs. Meyer社であった。これらの資料は生人形の海外流通に関する文献のなかでも古く、発信地が長崎、領事によって手配された点が興味深い事例である。2.アメリカ合衆国スミソニアン博物館スミソニアン博物館には1878年に松本喜三郎がホーレス・ケプロン(HoraceCapron 1804−1885)の依頼を受けて制作した貴族男子像(注4)、鼠屋伝吉による農夫婦像が現存する(注5)。また登録カードや展示写真から、松本喜三郎作の貴族女性像、1893年シカゴ万国博覧会出品の6体の武士像、1894年の記録に残る井伊直弼像― 230 ―
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