ついては、今後、さらに検討を行う必要がある。ここでは、14世紀から15世紀代前半頃に焼造されていたと、比較的長めに捉えておきたい。Ⅸ類に関しては、この時期に焼造されていた可能性があるが、基本的に小型のもので日常雑器であったと思われる。博多での出土例を見ても12世紀あるいは14世紀の遺構から出土しており、日本においても同じような扱いであったと思われる。Ⅹ類、ⅩⅠ類はⅢ類の粗製なつくりのものと思われるのでⅢ類とほぼ同時期のものと位置づけたい。以上、各形式の福建における出土状況と博多の出土状況から各形式の年代観の関係性を見てきた。Ⅰ類に関してはその出現時期に違いがあるが、それ以外の形式については、数量という視点は抜きにすると若干遅れて日本に入っている傾向はあるが、ほぼ同時代に日本へも輸出されていたと評価できる。このことは平安、鎌倉時代にかけて黒釉碗、天目碗への興味・需要が高かったことを物語っている。しかし、森達也氏も指摘するように、所謂建窯で焼造された質の良い建盞は日本国内にはあまり流通していない(注16)。まさに北宋中晩期から南宋早期の頃までは中国東南部地域において流行した喫茶風習が日本へも広がってその道具の需要が伸びたことで、福建地域で大量に建盞の模倣品が焼造され、それが日本へ入ってきていることになる。しかし、中国での天目茶碗の需要・流行は日本より早く廃れていく。13世紀代においても黒釉碗は焼造されるが、墓への副葬品利用は減少する。また元代の窖蔵から出土する陶磁器の組成を見ると、黒釉碗はその割合が少なく、また油滴天目などの極めて質の良いものが埋蔵されているところを見ると、それ以外のものは高価なものではなかったと指摘できる。また青磁や青白磁が広く福建地域内で焼造されていたのに対して、黒釉陶器を焼造する窯址の分布が閩江流域に偏る背景は、このような中国国内の需要の背景にあった可能性がある〔図1〕。次に福建地域における黒釉陶器の生産と都市・集落遺跡、墓地の出土状況から流通、消費のあり方を通してその背景を探ってみたい。2−2 分布(生産、流通と消費)2−2−1 古窯址における各形式の黒釉碗の分布まず各形式の黒釉碗の古窯址における分布状況を見てみる〔表1、図4〕。先述したように黒釉陶器の生産は閩江流域を中心に広がっている。年代的に古い形式のⅠ類とⅡ類は建窯、白馬前窯、武夷山遇林亭窯といった閩江の上流域、閩北地域を中心とした地点で生産されている。恐らく天目を始めとする黒釉陶器はこれらの地域で盛んに生産されるようになったものと思われる。そして時間が― 15 ―
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