あることから、この十六番歌謡が大小狂言に用いられたものであるとした。すなわち、業平躍、大小狂言の舞、小舞十六番がともに若衆歌舞伎の舞台で行われたこと、そして、その内容がほぼ重なるものであることが確認されたのである。さらに、高野氏は『業平躍歌』第一番の歌「あの山見さいこの山見さい」の起首が、『絵入可笑記』(万治2年(1659)版)の挿絵に登場すること、挿絵に「二人の物大小をあらそふ」という書き込みがあることを取り上げ、この図が大小狂言を描いたものであると推測した。その上で、挿絵の太夫の姿が、「白拍子の姿」を模したものであることも指摘した〔図3〕(注1)。この高野氏の研究を受け、服部幸雄氏の『歌舞伎成立の研究』では、複数の〈大小の舞図〉を画証として用い、考察を進めている。服部氏は『絵入可笑記』の挿絵の扮装が一連の〈大小の舞図〉と一致することから、〈大小狂言〉と〈大小の舞〉は同様のもので、〈大小の舞図〉とは、若衆・野郎歌舞伎の舞台姿から、主演者の姿だけを切り取ったものと説明している。さらに、〈大小の舞図〉の扮装が、1年の月の大小を数えて廻った〈鹿島の事触〉のスタイルに近いことから、〈大小の舞〉とは、太夫の脇に控える2人の狂言師が、月の大小を言い争った祝言芸であると論証している(注2)。一方、絵画史研究の側では、小林忠氏の『江戸の美人画』に数多くの〈大小の舞図〉の図版が掲載されており、〈大小の舞図〉研究において欠かせない資料となっている。なかでも、「みのきてかよへかさきてかよへ 小篠の露は 雨まさり」の賛のある一図〔図4〕、および「あの山見さい この山みさひ いたゝきつれた 小原木を」の賛のある一図〔図5〕を、もっとも素朴な形式を示すものと紹介している。そして、後者の賛が、高野氏紹介の「業平をどり十六番」第一番歌謡の前半部、および『絵入可笑記』の歌謡の書き入れと共通する点も指摘している(注3)。以上に概観したように、芸能史研究においては、一連の〈大小の舞図〉を一律に扱い、信憑性の高い画証としている。一方、小林氏の『江戸の美人画』は、基本的に作品紹介に主軸が置かれている。しかし、〈大小の舞図〉としてまとめられる作品群を子細に検討してみると、そこには時代による変遷と、歴史的意味の変化が認められる。そこで以下に、〈阿国歌舞伎図〉や〈寛文美人図〉など、表現の類似する作品との描写比較と、芸能史料との照合を行い、〈大小の舞図〉というジャンルの歴史的位置を再検証してみたい。■■■■― 248 ―
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