下るにつれて南宋前期には閩江の上流域の三明、光沢や中流域の閩清、閩侯、下流域周辺の福清でも大量に生産されるようになる。さらには閩江流域以外の地域である徳化においてそれほどの数はないが建盞も模倣するような形での黒(褐)釉碗の生産が行われている。また晋江磁竈窯の土尾庵窯址でもⅢ類が生産されているが、閩江流域のそれと比べて褐色を呈し、胎土の質感もより粗製品である。当該窯址の製品と思われるが、数量は少ない。Ⅳ類はさらに広い地域で生産されており、南宋前中期の12世紀頃まで続く。またⅢ類の口縁部をより強く外側にのばすⅥ類についても各地で焼造されている。その他、Ⅸ類は青磁や白磁にも同様の器形のものもあるため、最も作りやすかった形態であると思われ、かなり広い地域で見られる。その後、13世紀中頃になるとⅤ類、Ⅶ類が南平茶洋窯、閩江南嶼窯、鴻尾窯、丸窯、福清石坑窯を中心に見られる。また武夷山遇林亭窯や寧徳飛鸞窯でもⅤ類がある程度見られるようである(注17)。甫田宋辺窯でも数点、Ⅴ類が検出されているが、踏査した際にはほとんど黒釉陶器の破片は見られず、また福清石坑窯からも距離的にも近く、後述するように甫田の居住遺跡出土の黒釉碗も福清石坑窯産のものであると指摘されていることから、甫田では基本的にはⅤ類の黒釉碗は生産していないものと思われる。このようにしてみると、主に窯址における黒釉碗の分布状況から、黒釉碗は当初閩江の上流、特に北側の地域で生産されていたのが、徐々に閩江流域・周辺さらには泉州周辺域まで生産地域が広がっていたことが推測される。一方で、13世紀後半頃では、閩北でも黒釉の天目碗類の生産は継続するが、南平より以南の閩江流域を中心に黒釉碗の生産主体が推移していく流れになっているものと思われる。Ⅸ類のような丸碗はこの時期も各地で生産されていた可能性は否定できない。またⅩ類の碁笥底のものは高台を作らず、またⅩⅠ類に関しては外底の刳り貫きが余りにも雑なため、高台畳付がかなり細く狭い粗雑なものになっている。胴部は建盞形を意識してはいるものの、日本などでは需要がないような粗製なものであり、福建地域などにおける日常粗製品のようなものであろう。黒釉碗を主に作る地域の中でも、若干地域的に離れており、製品のグレードも低いものと思われる。結果的に中国ではⅤ類までが製品として需要があったものと思われる。Ⅷ類については、ほとんど都市遺跡からは確認されず、14世紀中頃から15世紀前半にかけての日本での出土例が中心となる。ところで製作技法あるいは窯詰技法についても観察を行った。閩江流域の中でも、より上流域の光沢茅店窯、邵武四都窯、順昌際会窯、三明中村窯では口縁部の釉をふき取る口禿げの状態である。つまりこれらの黒釉碗類は伏せ焼き行っていたことを示― 16 ―
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