鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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らたかの数珠00を首にかけ、金鍔の二尺六寸なる白鮫鞘の刀を差し、金の張鞘の二尺ば0000000に、かりなる大脇差をはねざしにさしこなし、腰のさげもの何々ぞ、梨地蒔絵の印籠000000000、金の瓢箪0000取りまぜて、くすみてさげし有様」と記されている紺地の金襴の大巾着(注5)。つまり、千葉市美本の数珠と印籠、巾着というアイテムは、阿国歌舞伎の扮装を強く意識した描写であると言える。上記の「茶屋遊び」を描く絵画の中には、『かふきのさうし』の詞書にあるような「梨地蒔絵の印籠」を表現するため、印籠に艶のある黒色を塗り、金泥の点を描き入れたものや〔図12〕、「白鮫鞘の刀」を表現するため、鞘に胡粉で点々の盛り上げを作り、その上に彩色を施し、鮫鞘の質感を再現したものなども見受けられ〔図13〕、阿国の扮装についてかなり具体的な情報が伝わっていたこと、そして、阿国の持物を正確に再現するため、画家たちが様々な工夫をしたことが分かる。若衆歌舞伎は、寛永6年(1629)の女歌舞伎の禁止に伴い、一気に注目を集めた。若衆が歌舞伎の舞台に立つことは、すでに阿国歌舞伎の時代から行われており、若衆歌舞伎が女歌舞伎の禁圧によって生まれた訳ではないことはすでによく知られている。しかし、彼らが舞台の人気を維持するために、あえて「阿国の後継者」としての姿を強調し、若衆歌舞伎に権威づけを与えたという推論は充分に成り立つ。つまり、千葉市美本を始めとする初期の〈大小の舞図〉は、阿国のイメージを踏襲した若衆たちの姿を捉えたものではないか、という仮説を提示してみたい。この説を補強するのが「江戸名所図屏風」(出光美術館蔵)における「茶屋遊び」の舞台場面である〔図14〕。中央に座る「かぶき者」の頭部には中剃りが認められ、本場面が若衆歌舞伎の舞台を描いていることは確実である。つまり、若衆歌舞伎においても、阿国歌舞伎の代名詞である「茶屋遊び」が引き続き演じられていたことが証明される。また、諏訪春雄氏は「茶屋遊び」の場面に、烏帽子、小袖、帯刀、手に扇子、背には御幣の代わりに花の枝をかざした業平踊の姿で舞台に登場しようとする役者を描いた屏風を紹介しており、「茶屋遊び」の芸態が時代とともに変容する中で、業平踊、すなわち〈大小の舞〉と融合した複雑な演出形式が登場したことを明らかにしている(注6)。若衆歌舞伎においては、阿国の「茶屋遊び」をそのまま演じるだけでなく、自身の得意演目である〈大小の舞〉と合体させ、更なる進化を試みていたことが分かる。また、前述の『かふきのさうし』には、阿国歌舞伎の舞台に「業平おどり」の場面が挿入されており、阿国歌舞伎と若衆歌舞伎の深い関連を感じさせる。服部氏はこの現象について、『かふきのさうし』の成立が若衆歌舞伎の時代にあたり、若衆歌舞伎― 250 ―

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