0000の舞台から想像した部分が紛れ込んでしまったためと説明している(注7)。しかしこれは、若衆歌舞伎の舞台において、阿国歌舞伎と混同されるような演出が行われていたことの証左ではないか。「阿国の後継者」として〈大小の舞〉を演じる若衆歌舞伎役者の姿は、『舞曲扇林』の記述からも浮かび上がってくる。同書は〈大小の舞〉と関連の深い小舞十六番の成立について、「お郡」由来のものであるとし、「お郡は芸をやめけるゆへ角助といふ狂言仕お郡に所望してけるにより小太夫遊女の時さまざま風流の事有しを一ツ一ツに是を書し日記に右十二番の拍子の割其外古来よりの小舞小うた不残形見なりとて角助に遺しける」と述べている(注8)。この記述では、小舞十六番、すなわち〈大小の舞〉が、阿国直系の正統な芸であることが意図的に表現されているのである。では再び、千葉市美本へと目を戻したい。図上の賛には「ミのきてかよへ 笠きて通へ 小笹の霧は 雨まさり」と記されている。この賛は『江戸の美人画』において「もっとも素朴な形式を示す」と紹介されている一図〔図4〕と共通する内容となっている(注9)。小林氏や浅野氏は、この賛を単に当時流行した小唄と説明しているが、今回の調査で、この賛と極めて近い関係にあると思われる歌謡が新たに見つかった。それは大分の笠和郷に伝わる雨乞い歌で、最後のフレーズに「柴戸山 みのきて通へ00 笠きて通へ00000 にはかに雨のふり来るに」という文言が見られる(注10)。この歌は、寛永19年(1642)に没した大分上野総社山円寿寺第14世の住持、寛佐法印の作と伝えられるものだが、寛佐が創作したというより、すでにあった雨乞い歌のフレーズを寛佐がまとめたもので、各地で同様の雨乞い歌が広まっていたと考えるのが妥当であろう。こうした史料を総合すると、千葉市美本に記された賛は、雨乞い歌を元にした小唄であると結論付けられる。〈大小の舞〉の歌謡とされる『業平躍歌』には、「山崎通ひ」の「雨0降らば蓑0と頼むよ 笠0と頼まん」という一節に見られるように(注11)、雨乞い歌からの影響を感じさせるものもあり、千葉市美本の賛もまた、〈大小の舞〉の歌謡であったことは疑いない。実は阿国歌舞伎の歌謡にも、雨乞い歌を取り入れたものが見受けられる(注12)。また「あの山見さいこの山見さい」の文言で始まる「小原木」が『業平躍歌』や小舞十六番、『絵入可笑記』に見られることはすでに述べたが、この歌謡は阿国も踊ったものであるとされる(注13)。千葉市美本の賛は、舞姿の描写と同様に、阿国歌舞伎の伝統を引き継いだ、古様な歌謡である可能性もある。〈大小の舞〉が白拍子の扮装を基にしていることは前述したが、加えて、『歌舞伎年代記』の次のような記述はさらに興味深い。「抑觴は、昔鳥羽院の御宇、■■― 251 ―■■■■■■■■歌舞伎の濫
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