注⑴高野辰之『日本演劇の研究』改造社、1926年、77〜111頁。⑵服部幸雄『歌舞伎成立の研究』風間書店、1968年、411〜442頁。⑶小林忠『江戸の美人画』学習研究社、1982年、145〜146頁。⑷浅野秀剛「大小の舞図」解説『千葉市美術館所蔵作品選』千葉市美術館、1995年、234頁。⑸服部、前掲書、349〜351頁、傍点引用者。⑹諏訪春雄「新出京名所絵屏風」『浮世絵芸術』43号、日本浮世絵協会、1975年1月、13頁。〈大小の舞図〉が、〈寛文美人図〉の1ジャンルに取り込まれ、美しい若衆の舞姿を描く口実として用いられた可能性を示唆する。すなわち、時間が経つにつれ、当初の「阿国の後継者」としての姿が忘れ去られ、数珠や印籠、巾着など、意味を失った阿国の持物は省略されるようになり、〈美人画〉としての観賞性の高さに重点が置かれるようになっていたのではないか。言い換えれば、芸能史研究において同列の意味を与えられていた一連の〈大小の舞図〉は、時代によってその意味合いを大きく変化させていると考えられるのである。この私の説を補強するのが、「明形」の印が捺された「大小の舞図」(個人蔵)である〔図17〕。「明形」印の図では、図上の賛に「うつつにも夢にも更におもひきや かゝるすかたの世にあらむとは」と記されている。図上に記されるのは、もはや踊歌の歌謡ではなく、像主の美しさを讃える内容になっている。〈大小の舞図〉は時代の変遷とともに、白拍子の呪術性を受け継いだ初期の姿を失い、代わりに美しい舞踊図の一変容として、〈寛文美人図〉のジャンルを支える大きな柱となっていったのである。おわりに以上、〈大小の舞図〉と呼ばれる一連の作品を概観しながら、その意味的変遷を追ってみた。千葉市美本を始めとする初期作においては、「阿国の後継者」としての姿が強調されていたが、次第にその意味は変化し、美人画の1ジャンルを形成するようになっていったことが確認できた。芸能史研究の成果を合わせてみると、初期作については当時の芸能史料との具体的な照合が可能であるが、後期の作品については、芸能史の画証として用いることは必ずしも有効ではない。このような歴史的意味の変遷は、芸能史研究の成果を踏まえた上で、絵画史の流れの中に再度作品を位置付け直すことで見えてくるものである。本研究は、芸能を描いた作品を扱う上で、一つの方向性を示す具体例を提出するものである。― 253 ―
元のページ ../index.html#263