鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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序会の競合をめぐって研 究 者:九州大学大学院人文科学研究院 専門研究員  荒 木 文 果1.ブファリーニ礼拝堂壁画とカラファ礼拝堂壁画ベルナルド・ピントリッキオ(1454−1513)は、ウンブリアの町ペルージャ出身の画家である。ペルジーノの助手として1481年から1482年に行われたシスティーナ礼拝堂装飾事業に参加した後、親方としてブファリーニ礼拝堂壁画の装飾に着手した。注文主は、同じくウンブリアの町チッタ・ディ・カステッロ出身のニッコロ・ディ・マ13世紀初頭に誕生したフランチェスコ会とドメニコ会は、その優位性を巡って創設当初から激しく対立していた。視覚芸術の領域においても、両修道会の競合関係は様々なかたちで表れた。例えば、1472年にフランチェスコ会出身の教皇シクストゥス4世は、ドメニコ会の聖人聖カテリナが聖痕を受ける、もしくは観者に聖痕を示す表現を禁止した。その表現は、フランチェスコ会の始祖聖フランチェスコのみに用いられるべきだと考えたためである(注1)。この事象は、15世紀後半において、両托鉢修道会が互いの視覚芸術に高い関心を持っていたことを示す出来事として興味深い。本稿は、1480年代にローマで制作された二つの礼拝堂壁画、サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂(フランチェスコ会)でベルナルド・ピントリッキオが制作したブファリーニ礼拝堂壁画〔図1〕と、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂(ドメニコ会)でフィリッピーノ・リッピが制作したカラファ礼拝堂壁画〔図2〕を取り上げ、両壁画を二大托鉢修道会の競合意識という文化的背景の中で捉えようとする試みである。従来、ブファリーニ礼拝堂壁画とカラファ礼拝堂壁画は、各画家のモノグラフにおいて個別に考察されてきた(注2)。唯一、両壁画を関連付けてきたのは、イリュージョニスティックな古代風建築部分─すなわち、両壁画の物語部分を規定する「枠」部分の構造と装飾─における類似性であった。一方で近年になって、画家フィリッピーノはカラファ礼拝堂壁画の物語場面の構築においてもブファリーニ礼拝堂壁画を参照したことが明らかとされた。以上を踏まえて本稿では、特にブファリーニ礼拝堂が捧げられたフランチェスコ会の聖人、聖シエナのベルナルディーノの正統性をめぐる両修道会の対立に注目しながら、両壁画が二大托鉢修道会の競合意識を内包した一対の作例であると考えられることを提言する。― 258 ―  ブファリーニ礼拝堂壁画とカラファ礼拝堂壁画におけるフランチェスコ会とドメニコ

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