している。通常、福建地域の多くの窯ではV字形の匣鉢を用いて黒釉碗を焼造する。その為一つの匣鉢には一つの碗を入れて焼くため、口禿げを行うことはない。同じ形式の黒釉碗の生産において、模倣の仕方にも大きな地域差が存在しているのである。口禿げにした製品は全体的に粗製であり、質的にも劣っていたものと思われる。このタイプのものは中国内の消費地である福州市内で発見されることはあっても、日本では基本的に見られないことから、天目碗であっても必ずしも当時の日本人商人が買い付けていないことが分かる。また石坑窯で見られるⅤ類や茶洋窯のⅧ類の碗は釉薬の二度掛けを行っている。両者は13世紀後半さらには14世紀中頃にかなり同様の形のものを作るだけでなく、施釉方法と製陶技術においても共通性が高いといえる。このことは先に示した古窯址における形式の分布において13世紀代に閩江下流域およびその周辺域で黒釉碗の生産が中心的に行われていたことと関連するものと考えられるが、それはやはり良港の福州に近接していたことが一番の要因であると思われる。2−2−2 都市・集落址における各形式の黒釉碗の分布都市や集落遺跡における出土状況に関しては、詳細な出土事例が報告されているわけではないが、いくつか方向性を知ることができよう。福州市内での都市遺跡や武夷山の集落遺跡から、茶入類と一緒にⅠ類、Ⅲ類、Ⅴ類、Ⅸ類の黒釉碗が見られる(注18)。また甫田の林泉院遺址では福清東張窯産、少林院遺跡では福清東張窯産以外に数点の建盞(建窯産)の茶碗が発見されている(注19)。さらに建陽から約40km程度はなれた、宋代に宮廷用のお茶を生産していた北苑遺跡からは、Ⅳ類のような建盞も多数出土しており、少なくともⅣ類までは喫茶風習とも関連を持ちながら中国国内でも流通していたことから分かる。一方、墓地における出土事例を林忠干氏の研究(注20)を参考にすると、主要な副葬品の組成は陶器類では倉形壺類が多く、そのほかは白磁、青白磁、青磁が主体となっている。黒釉陶器という視点でみるとその分布は武夷山、建甌、順昌、尤渓といった閩北に限られている。また時間的な変遷でみると北宋中後期から南宋前期にかけては副葬品のアイテムの一つとして用いられていたことが多い傾向になる。北宋後期頃の墓地と考えられる順昌県大坪林墓地からは所謂建盞形(Ⅲ類)と斗笠形(Ⅰ類)の建窯産と思われる黒釉碗が出土しており、丁寧な作りのものである。一方、南宋中後期では崇安紙廠工地墓の醤釉碗の一例が碗類の副葬事例はあるが、元時代では今のところ副葬品としては確認されていない。これは全体的に青磁類の流行および黒釉陶器― 17 ―
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