鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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2.フランチェスコ会とドメニコ会の対立─シエナの聖ベルナルディーノの正統性シエナの聖ベルナルディーノは説教によって「キリストの名の信仰」を広めたことで知られる聖人である(注16)。彼は、イエスの名を短縮したIHSという文字を放射状の金の光で囲んだモノグラムを考案し説教に用いた。しかし、そのモノグラムの使用に関しては、しばしば非難の的とされ、ベルナルディーノには幾度となく異端の嫌疑がかけられた。そして、ベルナルディーノを最も敵対視し、声高に非難した団体こそ、他ならぬドメニコ修道会であった。(注13)。ここで、当時のローマにおいてブファリーニ礼拝堂壁画とカラファ礼拝堂壁画が相次いで、新しい、しかし同様の古代風建築を用いたイリュージョニズムを提供し、その「枠」の中に描かれた物語表現もまた類似していたという事実にはより注意を払うべきであろう。当然のことではあるが、15世紀のローマの町は、現在我々が目にするそれとは大きく異なっていた。アヴィニョン捕囚と教会大分裂を経て、1420年に教皇マルティヌス5世がローマ入城を果たした時、その町は社会的・経済的・文化的退廃を極めていたのである(注14)。以来、歴代教皇たちは、廃虚と化したローマの町にキリスト教世界の首都に相応しい外観を与えるべく様々な事業を行った。急を要する建造物の修復から始められたローマ復興は、80年代には新しい建物の建造へと拡大し、その内部装飾への関心が一層高まっている時期であった。アラチェリ聖堂とミネルヴァ聖堂内でも、多くの礼拝堂が新たに建設され、高位聖職者や世俗の権力者たちが競って礼拝堂を所有し、その装飾を所望し始めた。そのような気運の中で、ブファリーニ礼拝堂壁画はアラチェリ教会において二番目に、ミネルヴァ教会においてカラファ礼拝堂壁画は一番目に大規模な装飾が行われたルネサンス的な壁画だったのである(注15)。さらに両教会は、直線距離にしてわずか650メートル程である〔図3〕。その地理的近接の中で両壁画の視覚的な類縁性は、同時代の観者に対してひとつの鑑賞態度を誘発する役割を持っていたと考えられよう。つまり、片方の礼拝堂を眺めた観者の脳裏には、自ずともう片方の礼拝堂が想起されるのだ。そして実際に、これから明らかにしていくように、15世紀末のローマにおいて両壁画は、ブファリーニ礼拝堂が捧げられたフランチェスコ会の聖人、シエナの聖ベルナルディーノの正統性に対する見解の違いを中心とした二大托鉢修道会の対立を背景にもつ一対の作品と見なしうるのである。ミラノ近郊のローディにある聖フランチェスコ聖堂内聖ベルナルディーノ礼拝堂に― 261 ―

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