類の粗製化という流れの中で、青磁類は時期が新しくなるにつれて副葬品の中に含まれている状況とは全く逆の様相を示している〔図5〕。ところで、近年、福建の沿岸部地域では沈没船の積荷に関する研究が進んでいる。福建連江定海の白礁一号からはⅧ類碗等が大量に確認されている(注21)。また現在までに発見されている沈船の積荷には建窯で生産された黒釉碗の発見例が少なく、一方でⅤ類やあるいはⅧ類などの建窯の建盞と比較してやや粗製のものが輸出向けの沈船から発見される傾向が高い(注22)。また合わせて福岡の博多遺跡などで見られる建盞形の黒釉碗は建窯産以外のものが多い(注23)。3、閩江流域の青磁閩江流域における青磁の大量生産は南宋中後期から元代にかけてである。龍泉窯青磁のブランド化の確立を背景にした市場の需要拡大と、それに応えるために福建地域における仿龍泉窯青磁の生産が行われ、福建地域内のみならず、国外へも流通、輸出されたことが、福建地域での青磁生産の拡大を誘因した(注24)。青磁の生産は、黒釉陶器と比較しても広く各地で焼造されている。所謂珠光青磁と呼称される倣龍泉青磁として始まった櫛描文青磁も福建各地で生産されている。当初は、日本で出土するそれらは厦門付近の同安窯産と考えられていたが、近年では甫田窯、南安窯で生産されたものが日本へ輸出されている可能性が指摘されている。今回の調査研究において、さらにその候補地の一つとして福清窯の可能性を指摘しておきたい。先述したように黒釉碗のⅤ類の製品を大量に生産している窯である。このⅤ類は日本でも数多く見られる。福清窯の青磁は甫田窯の南宋時代の青磁と比較すると刻花がやや丁寧な感じがあり、やはり博多を始めとする日本で見られる櫛描文青磁とも共通点がある。なにより黒釉碗と一緒に海外貿易用の製品を中心に焼造していた可能性がある。ただ、青磁の特徴についてはより複雑であり、紙面の都合上、稿を改めて議論することにしたい。4、閩江流域の陶磁生産と流通閩江流域では宋元時代に白磁、青白磁、青磁、黒釉陶器と多様な陶磁器生産を行っていた。異なる種類のものでも一つの窯で、しかも同時期に生産することも少なくなかった。福建の窯業はデコボコ窯と称される所以である。しかし、周辺地域で流行する陶磁器をすぐに模倣できたことが、福建陶磁の発展を支えてきた。そしてそれは閩江という江西、浙江とつながるだけでなく、国外を含めた交易、貿易を行うに好都合― 18 ―
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