から構成されたものであったととらえてよいだろう(注10)。それに対し「騎馬図巻」は、具体的な人物名が記されていないのも然ることながら、人物そのものについてもどこか淡々と描かれている印象があり、馬を操る人物そのものよりも、馬術そのものへの興味が強く感じられる。以前指摘したとおり、《随身庭騎絵巻》は、上級貴族による暴れ馬を乗りこなす随身への賞玩という視点で編纂されたと考えられるが、そのようにして生み出された暴れ馬と随身の図は、14世紀の制作とされる金台寺本《遊行上人縁起絵巻》における、地方武士の邸宅と思われる建物の画中画にも見られるように、皇族や上級貴族のみならず、地方の武士階級まで浸透したと考えられる。しかし、こういった武士たちが随身を賞玩するとは考えられず、別の意図、すなわち馬術の手本ないしは理想の馬の乗りこなし方として鑑賞されていたのではないかと思われる。つまり随身を描いた《随身庭騎絵巻》と「騎馬図巻」の間にも類似した関係があり、《随身庭騎絵巻》 のような騎馬人物の列影図という形式に倣い、一部の図像はそのまま利用しながらも、より実践的な馬術の指南書のように再構成したのが「騎馬図巻」のはじまりであったのではなかろうか(注11)。江戸時代になると、武家故実や馬術の研究が進み、もはやこのような図を「馬術の見本」として求められることはなくなったのだろう。むしろ単純に、中世の古い風俗を描いたものとして、懐古趣味的に鑑賞されていたと考えられる。たとえば左隻第6扇の牛の図などは、旅人らしき人物が牛を引き連れている姿であるが、これは他の騎馬図とは全く異質のものである。しかし牛と馬は一緒に描かれることは一般的であり、この牛の図が組み込まれたのも頷ける。つまりその時点で、騎馬図巻の実用的な意味は失われ、ひとつの古典主題として扱われていたといえる。屏風に騎馬人物を一扇に一頭ずつ描く形式は、古くは14世紀のものとされる《聖徳太子絵伝》(愛知・本證寺蔵)に、随身騎馬図の屏風が画中画として描かれ、古くからあった形式であるが、一方で、一扇に一頭ずつ馬を描く「厩図屏風」が桃山時代以降に数多く制作されたことから、このように騎馬図を屏風として鑑賞される下地が、江戸時代前期にはあったと考えられる。4、近世絵画への展開さて、「騎馬図巻」との関連で考えてみたいのが、『本朝画史』の狩野山楽伝において、山楽が描いたという「騎法七段」という主題である。狩野山楽(中略)初図犬追物式、又見張氏帝鑑図説始模写之、或画騎法七段、皆― 277 ―
元のページ ../index.html#287