鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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流播於世。「騎法七段」というのは、「七段の歩法」といわれるものと考えられ、馬術書によってまちまちであるというが、基本的には、ゆっくり歩かせることから徐々に走らせ、疾走させるまでの歩様を七つの段階に分けたものであるという。たとえば『日本馬術史』によると「大坪本流飛鳥之巻」では、「乱足」「片乱足」「踊足」「揃足」「千鳥足」「運足(はこびあし)」「延足(のべあし)」の七段階に分けて解説されている(注12)。ところで『国華』689号に、梅津次郎氏が所蔵していたという《馬術図》〔図5〕が掲載されている(注13)。藤懸静也氏の解説によると、計8図あるうちのもので、大坪流の印可状と目録が添付されており、そこには元和3年(1617)の年記があるという。年代からいっても、この作品は、『本朝画史』に云う「騎法七段」にかなり近いものであると考えられる。『本朝画史』は、帝鑑図や犬追物図も狩野山楽が初発であるとするが、今日ではそれは否定されていて、『本朝画史』自体が狩野派、とくに京狩野派を顕彰する意図が強いことが指摘されている。したがって、「騎法七段」を山楽が創始したかは定かではないが、現在にも多数作例が残る帝鑑図や犬追物図とともに、山楽が発案者であることを特筆するほどに、狩野永納の時代には広く流布していた主題であったと推察される。「騎法七段」は、「大坪本流飛鳥之巻」の挿図を見る限り、「騎馬図巻」の図像が直接用いられたものではないようだが、時代が降るにつれて馬術の様式も変化し、馬術の流儀が整備されるに従い、「騎馬図巻」を人物の風俗も含めて当世風にアレンジしたものの結果が「騎法七段」と呼ばれる騎馬武者図ではなかろうか。また、近世初期に複数点作品が遺る「調馬図屏風」という主題にも、「騎馬図巻」や「騎法七段」と関連してくるのかもしれない。たとえば醍醐寺本《調馬図屏風》を見てみると、ゆっくり歩かせている姿から、疾走させている姿まで、様々な姿が描かれており、こういった図像の典拠として、「騎法七段」のような馬術の図巻が元となった可能性も考えられる。また、先述の『国華』掲載の《馬術図》〔図5〕は、前髪を上げていない若衆の姿で描かれていて、こういった若衆は「調馬図屏風」のなかで盛んに描かれているという共通点を見出すことができる。以前指摘したとおり、「調馬図屏風」に描かれるこういった馬に乗る若衆は、男色の対象として鑑賞者が賞玩するものとして、中世絵画における馬に乗る随身と共通性があり、その鑑賞の仕方に由来するものであるのではないかと、筆者は考えている。― 278 ―

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