鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴金子岳史「「はね馬」と随身」(『美術史』165)2008年⑵「騎馬図巻」作品解説(展覧会図録『鎌倉の武士と馬』馬の博物館)1998年⑶宮次男「調馬図巻」(『古美術』20)1967年⑷「捉馬図」(『国華』131)1901年⑸榊原悟「調馬図」解説(『秘蔵日本美術大観8 ケルン東洋美術館』講談社)1992年。原口志津子「《史料紹介》富山県個人蔵「随身乗馬図」について」(『富山県立大学紀要』11)2001年。⑹「寛文六正月廿二日/妻木吉右門より来/屏風おしゑ/京図ニて書候もの也/代銀五六枚なら御取候へと申遣候」との書き込みがあるのが注目される。河野元昭「資料紹介『探幽縮図』(東京芸術大学資料館蔵)」(『美術史論叢』9)1993年。まとめ以上の考察をまとめると、次のような想定である。平安・鎌倉時代に、《随身庭騎絵巻》に代表されるような、貴族が騎馬人物を賞玩する目的で、騎馬図の画巻が制作された。やがて武士が絵画の受容者・消費者として幅を利かせるようになると、そういった騎馬図の画巻は、より実践的な乗馬の見本としての画巻として、先行図像を利用しながら再構成された。これが「騎馬図巻」である。やがて近世になり、馬術の流儀が整備され風俗も変化すると、当世風の騎馬図に再構成されたのが「騎法七段」である。一方、近世において、中世への懐古的な視点から、「騎馬図巻」は「古画」の一主題として、引き続き制作されて鑑賞されたと推測される。⑺東京藝術大学大学美術館所蔵東洋画模本−84、−1098、−1294。蔵品目録『東洋画模本IV』(1998年)所載。⑻前掲注⑸原口氏論文。⑼中尾善保「随身庭騎絵巻に対する馬術および馬匹外貌学的考察」(『東京藝術大学美術学部紀要2)1996年。柴田眞美「絵画における美術解剖学的研究─「騎馬図巻」について─」(『文化女子大学紀要 服装学・造形学研究』36)2005年。⑽池田忍「逸翁美術館『競馬絵』の紹介とその性格」(『秋山光和博士古稀記念 美術史論文集』便利堂)1991年⑾しかし、「騎馬図巻」は武家社会によって受容されたと考えられるが、鎌倉時代も後期ごろになると、後鳥羽院が騎馬や武芸を好み、西面の武士を組織するなど、貴族社会の間でも、実践的な馬術への関心が高まったと想像される。宮次男氏や原口志津子氏が推測しているように、「騎馬図巻」の原本は、貴族社会の間で、公家に仕える武士の姿なども織り込みながら成立した可能性も考えられよう。⑿日本乗馬協會編『日本馬術史』第1巻(大日本騎道會)1941年⒀藤懸静也『馬術図』(『国華』689)1949年― 279 ―

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