注⑴森達也「天目と呉州赤絵」『出光美術館』館報155,出光美術館,2011年,4−32頁⑵福建省博物館・MOA美術館・茶道資料館『特別展 唐物天目─福建省建窯出土天目と日本伝な良好な港をもつ都市の福州が存在していたことが大きいものと言える。日本を中心とする輸出品に関しては、特に13世紀後半から14世紀前半にかけて、今回詳細に検討した黒釉天目碗の中心的な生産地は閩江下流域および周辺地域であり、交通の便にも優れていることが分かる。この時期閩江下流域では、国内外の需要を満たす倣龍泉窯青磁の生産のみならず、中国では既に下火になりつつあった黒釉天目碗を日本人の需要に向け生産し、流通させていたのである。その為、黒釉を焼造する習慣は継続された。そのような背景の中で、14世紀後半頃から日本における茶の湯はさらに流行し、また琉球での需要が高まる。しかし、既に14世紀の段階にはもともと積極的に黒釉陶器類を生産していた閩北地域では白磁や青磁類への生産へ移行していた。今回の分析を通して黒釉碗類の生産に関しては、13世紀頃から茶洋窯や閩江や福清などの閩江下流域周辺の諸窯間での技術交流あるいは窯業圏における管理と流通ルートが存在していたと思われ、生産量は一時期減少したものの、黒釉碗類は生産されていたことがわかった。貿易港である福州港に近いという地理的好条件も生かして、14世紀後半における日本あるいは琉球における黒釉碗類の需要に応えることができたと捉えることができよう。一方で、中国国内の南宋後期から元代の窖蔵出土の天目碗類を見てみると、福建産の黒釉陶器はほとんど見られず、江西吉州窯産や華北の窯で焼造されたものが多い。北宋時代には福建の建窯産の建盞は極めて有名であり中国国内での需要があったわけであるが、南宋から元にかけての閩江流域の黒釉陶器に関する窯業のあり方は白磁、青磁同様に東アジア(あるいは東南アジアも含む)の海域圏を意識した陶磁器生産と連動して行われていたと評価できるのである。世の天目─』MOA美術館・茶道資料館,1994年⑶その他、南安窯等の可能性も指摘されている。なお亀井氏や森氏は甫田窯青磁の特徴と博多で出土する櫛描文青磁の共通性が高いと指摘するが、日本で出土する同青磁の全てが甫田窯というのではなく、輸出されていた一つの窯であるとの認識である。亀井明徳『福建省古窯跡出土陶磁器の研究』都北印刷出版株式会社,1995年。森達也,前掲文献⑴⑷森本朝子「博多遺跡群出土の天目」『特別展 唐物天目─福建省建窯出土天目と日本伝世の天目─』MOA美術館・茶道資料館,1994年,194−214頁⑸国立中央博物館『新安海底文物』三和出版社,1977年⑹田中克子「博多遺跡群出土の中国陶磁器と対外貿易」『博多研究会誌』20周年紀年特別号,博多研究会,2011年,57−77頁⑺順昌県文管会・順昌県文化局・順昌県文化館「福建順昌県北宋墓清理簡報」『考古』1987年第― 19 ―
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