鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  髙 橋 沙矢佳はじめに静岡・伊豆の国市に所在する願成就院伝来の諸像(阿弥陀如来坐像〔図1〕・不動三尊立像〔図2〕・毘沙門天立像〔図3〕)は、鎌倉幕府の初代執権、北条時政が願主となり、運慶によって文治2年(1186)に造始された作例である。また神奈川・横須賀市の浄楽寺に伝わる諸像(阿弥陀三尊像〔図4〕・不動明王立像〔図5〕・毘沙門天立像〔図6〕)は、有力御家人の和田義盛が妻小野氏とともに発願し、文治5年(1189)に造像されたことが銘文から知られる。願成就院と浄楽寺の各群像はいずれも堂々として量感豊かに表されており、運慶様式の確立を示すものと評価されている。先行研究では、運慶の作風展開における両群像の位置づけや表現の成立事情に関心が寄せられてきた。また、運慶と東国との関わりという点については、主に造像の場が問題とされ、運慶の下向非下向について盛んに議論されてきたほか、近年では、北条氏などの御家人による運慶の起用について政治的意図を考察した研究(注1)や、運慶作例に対する霊験仏信仰に注目した研究(注2)が行われている。本研究では、願成就院と浄楽寺の諸像の受容者である東国武士の信仰という点からその性格を見直したい。願成就院は、静岡・伊豆の国市韮山にある守山の東裾に、館に近接して設けられた北条氏の氏寺である。現在創建当初の伽藍は残されていないが、発掘調査によってその遺構が確認されており、浄土庭園を備えた大規模な伽藍であったと推定されている。浄楽寺は、和田義盛の館跡伝承地からは離れた位置にあるが、和田義盛の意向により三浦半島内の勝地を選び建立されたと推定されている(注3)。願成就院や浄楽寺のように、中世の武士は氏寺として持仏堂や寺院を設けることが一般的であった。中世武士の氏寺のために造られた両群像は、願主である時政や義盛のどのような祈りのために、どのような宗教的性格の像として造られたのだろうか。本研究では両群像の宗教的性格を検討した上で、東国における運慶の造像について、受容者の信仰という点から考察していきたい。12世紀後半から13世紀前半にかけて活動した仏師・運慶には東国に関わる数々の事績が知られているが、その初期の現存作例が、静岡・願成就院と神奈川・浄楽寺に伝来した諸像である。― 283 ―  東国所在の運慶の造像の研究─静岡・願成就院諸像を中心に─

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