鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
297/537

ていることをすること)をしたり、身の在り方(四儀)が驕りたかぶっている(軽慢)といった破戒の者でも捨てない、と述べる。また毘沙門天については、例えば『拾遺往生伝』巻下五「大法師順源」に次のような話がある。僧でありながら懈怠な人物であり、さらに娘を妻として皆に謗られていた順源が、臨終に際して歓喜礼拝したので、傍らにいた人物が訳を尋ねると順源は次のように答えたという。年来毘沙門天、臨終の時に、極楽に導くべしの約言あるをもて、今已に顕現せり。故にもて歓喜するなり、云々といへり。即ち合掌して西に向ひ、念仏して滅せり。(『続・日本の思想1 往生伝 法華験記』、岩波書店、1995年、363−364頁)年来毘沙門天は臨終の時に極楽に導くという約束があり、今すでに顕現した、そのために歓喜したのだという。そしてその後、順源は合掌して西に向かい、念仏して入滅した。毘沙門天が極楽への導き手としての働きをすることもあったことがわかる。このように、不動明王・毘沙門天はそれぞれともに極楽浄土への導き手としての性格を持つようになった(注8)が、特に、上記の二史料においてはどちらも戒を犯した者をも救済する存在として表されていたことは注目される。さらに、不動・毘沙門への信仰を考える上で注目されるのが、12世紀前半に成立した『後拾遺往生伝』巻上九「大和国鳴河寺僧経助」である。同説話は、経助が入滅した日の夜に同寺の住僧観久が見た夢について、次のように記す。同寺住僧観久〈字万燈聖〉夢。経助上人移徙他所。毘沙門天王在前。不動明王在後。扶持相従而送云々。便知天王明王摂取而導西方。上品決定往生之相也。(『続・日本仏教の思想1 往生伝 法華験記』、岩波書店、1995年、647頁)経助が他所へ移ろうとしていると、毘沙門天が上人の前に、不動明王が後ろにあり、上人を助け相従って送ったという。そして、毘沙門天と不動明王が救いとって西方に導くのは、必ず上品往生する相であるとする。不動・毘沙門の組み合わせが、極楽に向かおうとする人を護り、導く存在ともなったことが分かる。このような機能が不動・毘沙門の脇侍形式の成立当初まで遡るものかどうかについては、なお検討の余地があるが、後には極楽への導き手としての性格を持つようになったのである。以上の検討により、説法印の願成就院阿弥陀如来坐像は、願主北条時政が日々阿弥― 287 ―

元のページ  ../index.html#297

このブックを見る