注⑴塩澤■樹「第二編 草創期の幕府造像─第一期の実態─」、『鎌倉時代造像論 幕府と仏う。阿弥陀三尊の来迎を得られない下品往生者にとっては、往生者を守護し、極楽への案内人ともなりうる不動・毘沙門は、自らの極楽往生を確実にしてくれる頼もしい存在と考えられたのではないだろうか。このように、阿弥陀小呪を称えるための阿弥陀如来坐像と、礼拝者を護り導く不動明王立像・毘沙門天立像からなる両群像の組み合わせは、自らを宗教的悪人と自覚し、その罪を滅して救済されることを願った武士の礼拝像として相応しいものといえる。おわりに静岡・願成就院と神奈川・浄楽寺の諸像は、それぞれ、悪業の者としての宗教的自覚を持つ武士の救済への祈りのために造られた。両阿弥陀如来像は阿弥陀小呪を誦す行のための像であったと考えられ、下品往生者の礼拝像として相応しいものといえる。『観無量寿経』の下品下生は五逆罪の者の救済を説くが、『白宝口抄』によれば、説法印と来迎印はいずれも、中世には五逆罪からの救済と結び付けて認識されていた。両阿弥陀如来像の印相は、罪業への強い自覚とそこからの救済を願う中で、選択されたと考えられる。時政と義盛は、不動明王と毘沙門天の守護を仰ぎながら、滅罪と極楽往生を願って阿弥陀を供養したのである。これまで願成就院諸像と浄楽寺諸像における新しい表現の成立は、東国武士の気風や好み、東国の風土と結び付けられて説明されてきたが、像の受容者の信仰との関わりという点から考えると、願成就院、浄楽寺両群像の表現は、いずれも滅罪への意識を基調とする信仰を持つ願主によって受容されたものといえる。この後、慶派仏師の仏像が東国武士の間で広く受け入れられたことは、その造形が彼らの宗教観に符合するものであったためと考えられる。運慶の作り上げた仏像の表現は、罪深い存在をも救済に導く仏の姿として、新たな時代の主役となった武士たちに受け入れられたのではないだろうか。師』、吉川弘文館、2009年、58−84頁⑵瀨谷貴之「総説 霊験仏─鎌倉人の信仰世界─」、神奈川県立金沢文庫編『特別展 霊験仏─鎌倉人の信仰世界─』、2007年、5−8頁⑶瀨谷貴之「東国武士と運慶」、『別冊太陽 日本のこころ176 運慶 時空を超えるかたち』、平凡社、2010年― 290 ―
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