られることになる。そのひとつが1808−14年のナポレオンによるスペイン侵攻である。この間フランスの将校たちはアンダルシア地方の教会や修道院が所有する絵画を略奪し、彼らの個人コレクションに加えた。そしてもう一つの出来事はスペインの内戦の混乱時におけるスペインの修道院の廃止や閉鎖である。これは修道院に収蔵されていた美術品が散逸する原因をもたらした。1835年に修道院の廃止、そして1836年にはその接収した宗教財産の売却の勅令が政府から出される。これにより教会や修道院にあった大量の美術品が政府の所有となり、そこには莫大な財産が構成されていた。しかし内戦の費用捻出のため、集められた大量の美術品は緊急に捨て値で売られることになった。スペイン内外を問わず、コレクターたちはあらゆる機会をつかんでは、自分のコレクションにスペイン美術を増やそうとした。その中でも最も顕著な例が、フランスのルイ・フィリップの「スペイン・ギャラリー」であった。フランス国内で、ベラスケスやムリーリョはルーヴルで所蔵されていたことや個人コレクターの存在によって一部でその名が知られていた。リベーラに関しては版画の普及によって一般にその名が知られていたが、ただしそれはナポリの画家であるという認識であった。反面、スルバランは、実際に、1838年以前には、フランスでその名はほとんど知られていなかった。テロールによって収集されたスペイン・ギャラリーによって、ようやくその存在を世間に知らしめさせることができたのである。スペイン・ギャラリーには400点以上のスペイン絵画が陳列されていたが、そのうち80点がスルバランの作品であった。これはこのスペイン・ギャラリーの画家たちの中でも一番多い作品数である。事実上無名に等しかったスルバランの存在が突如明らかにされたことが契機となって、この優れた画家が注目されるようになったのである(注2)。スルバランの《受胎告知》、《羊飼いの礼拝》、《東方三博士の礼拝》、《割礼》の変遷についてフランス国内で、「スペイン・ギャラリー」のスルバランの作品を4点セットで所蔵しているのがグルノーブル美術館であり、その作品は《受胎告知》〔図1〕、《羊飼いの礼拝》〔図2〕、《東方三博士の礼拝》〔図3〕、《割礼》〔図4〕である。この4点の油彩画はカディス県のヘレス・デ・ラ・フロンテーラのカルトジオ会修道院「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・デフェンシオン(我らを守護し給う聖母修道会)」のために制作した祭壇画である(注3)。この4点はほぼ同サイズで、もともと祭壇画の一部であった。この祭壇画は、19世紀の初めに分割されてから、多くの変遷の憂き目を見た。この変遷のせいでもともとの祭壇画の様相を知ることが長い間不可能とな― 295 ―
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