鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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っていたが、再構成の試みが1987−1988年のニューヨークのメトロポリタン美術館とパリのグラン・パレのスルバラン展のときに行われた〔図5〕。ナポレオン美術館のコレクションとして(1810−1815年)スルバランの存命中でさえも、そして18世紀にも話題に触れられることがなかった祭壇画は、学識豊かなアントニオ・ポンスの『スペインの旅』の中で取り上げられ(注4)、そしてセアン・ベルムデスに引用され、1807年にヘレスを訪れたフランスのアレクサンドル・ド・ラボルドによって称賛された(注5)。この祭壇画はナポレオンの侵略によって19世紀の初めに分割された。その祭壇画のシリーズのうち、《東方三博士の礼拝》、《割礼》に関しては、1810年、ナポレオン政権時代、ナポレオン美術館のスペイン・コレクションの作品として、フランスに渡っている。こうして1810年の出発に始まり、最終的に1901年にグルノーブル美術館に帰着するまで様々な変遷の憂き目を見たのである。この祭壇画の変遷はナポレオンの占領から始まる。1808年12月−1809年1月、ナポレオン美術館のコレクション拡大のために、初代館長ヴィヴァン・ドノンの短い調査が行われた。しかし、あまりにも短い滞在のためドノン自身が選ぶことはできず、新しくスペインの国王となったナポレオンの兄ジョセフの新政府に対し、皇帝ナポレオンの名において、スペインの傑作およそ50枚を送るよう要求した。この作品選定作業には、当時首席宮廷画家であったゴヤも加わっていた。1810年10月25日、ゴヤ、マエーリャ、ナポリによって第2回目の絵画選択がなされ、スルバランの代表作として、《東方三博士の礼拝》と《割礼》と《ヘレスの戦い》〔図6〕が選ばれた。しかし、政治的状況の難しさだけでなく、作品を高く評価し、手放そうとしなかったジョゼフ・ボナパルトの態度もあって、およそ3年もの間、大部分の作品がマドリードに置かれ保管されていた。聖フランシスコ修道院とサン・フェルナンド美1809年12月20日、ジョゼフ・ボナパルトの名においてマドリードに国立美術館を創る勅令が公布され、その第2条項において「皇帝へのプレゼント」という形が取られた。ジョゼフ・ボナパルト国王の支配下に修道院の閉鎖、教会財産の没収があり、当時カディスに住んでいたフランス人骨董商のフレデリック・キリエが、アンダルシア地方の作品を統括する役目を負っていた。彼は美術委員として、教会から押収した多くの芸術作品をセビリアのアルカサルに置き処理していた。1810年2月、彼はこの都市の美術品や、放置されたカルトジオ会の38枚の絵画をヘレス・デ・ラ・フロンテーラに集め、そのうちの26枚をマドリードへ送った。― 296 ―

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