鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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術アカデミーに《東方三博士の礼拝》と《割礼》の2枚が置かれ、その他の作品も選ばれたものの結局留め置かれたということである。スペイン・ギャラリーのコレクションとして(1837−1848年)1813年5月26日、選定された作品がユゴー将軍に護送され、マドリードを離れた。《受胎告知》、《羊飼いの礼拝》と同じ祭壇画のシリーズの《ロザリオの聖母》〔図7〕はマドリードの保管所に置かれていた。保管所に残された絵画はすべて国の美術館用に充てられ、ジョゼフの亡命後まもなく、1813年6月にサン・フェルナンド美術アカデミーに運ばれた。1813年7月28日、選定された作品がパリに到着した。その中にはスルバランの《東方三博士の礼拝》と《割礼》と《ヘレスの戦い》があった。パリに送られたスペインの絵画は、ヴィヴァン・ドノンを失望させたようである。ナポレオン美術館用にフランスに送られた作品の大部分は決して展示されることはなく、1815年、スペイン政府に返却されるまで、ルーヴルの予備室の中に残されたままであったが、《東方三博士の礼拝》と《割礼》に関しては、ドノンが展示するのにふさわしいと判断した15点の作品に含まれていた。1814年4月6日、ナポレオンは退位し、1814年5月にはナポレオン美術館用に集められた絵画の返却が命じられる。1815年10月、ナポレオン美術館用に集められた絵画が返却される。スルバランの3枚の絵画は、マドリードのサン・フェルナンド美術アカデミーに置かれた。《受胎告知》と《羊飼いの礼拝》に関しては、フランスへの移動はなく、1820年11月にヘレスのカルトジオ会に返却された。この祭壇画のシリーズの中で欠けていた他の作品もこのときマドリードから送られてきた。1835年10月の修道院の廃止、政府による永代所有財産解放令で、その年の12月、ヘレスのカルトジオ会修道院のスルバランの油彩画計18点が、カディスで創設を計画している美術館に置くために、カディスに運ばれる。政府に委託され、カディスの美術アカデミーの管轄になった。修道院から流れてきた美術品を集める任務を負っていた画家のホセ・アントニオ・メサスという地方評議会の委員長は、1836年2月の王勅令による教会財産の売却にしたがって、良質の作品を保管し、「二流、三流」と判断した作品を売っていた。スルバランの油彩画はこの1836年の売却からは逃れたが、ちょうどその時期スペイン絵画の収集活動をしていたテロールとドーザによって注目された。宗教財産を接収したスペイン政府は、外国、特にフランスにこれらの美術品を売― 297 ―

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