鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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ることを奨励していた。スルバランのヘレスの祭壇画は1836年の時点で売却を提案されていて、メサスはその商取引の任務を負っていた。カディスの美術アカデミー側にとっても、そのフランスからの財政面での申し出は関心をそそられるものであった。それほど一流の画家ではない、と評価していたスルバランの作品に対し、まるで常軌を逸していると思えるような金額だったからである。そのお金でカディスの委員たちへの支払いもできるし、予定しているカディス美術館の設立も可能となるだろう、という魅力的な申し出であった。実際、ヘレスの教会に属していたその他の油彩画については、その後設立された、カディス美術館の所有となり、1847年以降そこに展示されている。ちょうどその頃、政府は美術品の輸出を禁止しようとしていたが、メサスの積極的な働きがあり、1837年7月9日、スルバランの6点の絵画の売却を許可する王勅令が出される。そして、7月27日パリに到着したこの6点の絵画は、1838年1月7日のスペイン・ギャラリーの公開とともに展示された。スルバランの作品の中でも壮大な構成によるスルバランのヘレスの祭壇画(《受胎告知》、《羊飼いの礼拝》、《マギの礼拝》、《割礼》、《ヘレスの戦い》、《ロザリオの聖母》)は、ルーヴルの「スペイン・ギャラリー」でスルバランとみなされている80作品の中でも第一級のランクに位置づけられた(注7)。スルバラン作品の中でもかなり大画面の作品であり、当時の「スペイン・ギャラリー」における展示ではかなり目立っていたのではないかと思われる。しかし、当時、ゴーティエを含め他の批評家たちも、この祭壇画のシリーズにはそんなに心を動かされていなかったようである。当時好まれた作品は、特にフランシスコ会、それにメルセス会、カルトジオ会、ヒエロニムス会の修道士や聖人の絵画であった。もっぱら宗教からのインスピレーションによるそれらの絵画はその簡素さによって、色彩、あるいは主題によって人々を感動させていた。公開時、ゴーティエ等ロマン主義の作家によって、「宗教的神秘主義としてのスルバラン」のイメージが定着した〔図9〕(注8)。1836年12月27日、当時セビリアにいたテロールの代わりに、ドーザは仮の地方美術館であるカディスの美術アカデミーを訪れ、「スケッチ帖1」〔図8〕にスルバランの祭壇画を簡単にスケッチし、その印象を書き留めた(注6)。その「スケッチ帖1」に描写されたドーザの印象にテロールは心を動かされ、翌年2月、テロールはカディスを訪れ、スルバランの祭壇画のシリーズの内6点を購入することにした。それが、キリストの幼年時代の4点の絵画と《ヘレスの戦い》、《ロザリオの聖母》である。― 298 ―

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