1901年にグルノーブル美術館所蔵となるまでの動き1848年の二月革命後、「スペイン・ギャラリー」のあわただしい閉館が引き起こされ、同時にルーヴルの倉庫に絵画がストックされることになった。1849年4月13日の絵画の返却の決定にもかかわらず、それらは結局1850年10月まで残され、そしてイギリスに亡命した亡き国王の家族のもとに、額縁に入れられることなくみすぼらしく荷造りされ返却されたということである。1873年、共和国が宣言された後で、セビリアで暴動が勃発した時に、モンパンシエ公は、サン・テルモの傑作55点を一緒にイギリスへ送るつもりでジブラルタルに移させた。ロンドンのロイヤル・アカデミーが彼のコレクションを展示することを望んでいたようだが、そこに別の計画があったために断念したようである。税関所に置かれていたモンパンシエ・コレクションは、ボストンのアーサ・コッドマンに目を付けられた。彼はボストン美術館の前身であるボストン・アシニアム(学芸協会)にそれらを運ばせる許可を得た。モンパンシエ・コレクションのその他の作品とともにスルバランの4点の絵画は1874年から1876年、ボストン・アシニアムに展示され、その後セビリアに返された。1877年から1897年まではセビリアのサン・テルモ宮殿に飾られていた。1890年にモンパンシエ公は亡くなり、数年後の1897年、彼の遺言に従って宮殿を司教区に譲り、彼の財産を遺族である2人の子供に分け与えた。このようにしてスルバランの4枚の絵画は娘のイサベル(1848−1919)の手に渡った。彼女はパリ伯(1894年に死亡)フその後、新約聖書を主題にした4点の絵画は、1853年5月のクリスティーズでのルイ・フィリップのコレクションの競売のときに、二月革命後スペインに亡命していたルイ・フィリップの末息子のモンパンシエ公爵が購入する。アントワーヌ=マリー・ド・オルレアン(1824−1890)は、1846年にスペインのイサベル女王の妹とマドリードで結婚したが(注9)、二月革命後、イギリスに亡命し、その後、スペイン政府がセビリアへの移住を許可したので、1848年5月5日スペインに移住。1849年には18世紀の初めに建築されたサン・テルモ旧海軍兵学校の威厳のある建物を購入し、宮殿に改造した。このサン・テルモ宮殿の「サロン・ド・カマラ」には、スペイン・コレクションの傑作30点が飾られていて、スルバランの4点の絵画もこの部屋に掛けられていた。ロンドンでの購入は父ルイ・フィリップへの思い出の忠実さを表していると同時に彼の第二の故郷となった国の芸術への知的な関心にもよるものである。しかし、政治的な投資でもあり、彼のスペイン王位への野望にも結び付けられるものである(注10)。― 299 ―
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