ィリップとの結婚によってパリ伯爵夫人となっていた。未亡人となったイサベルはフランスのランダン城で暮らし、その後スペインのビリャマンリケ・デ・ラ・コンデサ(セビリア県の町)で暮らした。スルバランの4点の絵画は、ランダン城やビリャマンリケの彼女の邸宅に置かれていた。グルノーブル美術館にとって偉大な芸術庇護者であるレオン・ド・ベリエ(1849−1910)がパリの画商で鑑定家のジュール・フェラルのところ(モンマルトル通り)で、スルバランの4点の絵画に注目したのは1901年の春のことである。スルバランの4点の絵画は1901年にはジュール・フェラルのところに置いてあった。当時ルーヴルの絵画部門における学芸員であったジョルジュ・ラフネストルは、これらの絵画を見て、彼の部門のスルバラン(《リヨン公会議における聖ボナヴェントゥーラ》と《聖ボナヴェントゥーラの埋葬》)と同等の価値があると評価し、この4点をルーヴルに入れることを検討したが、最後には「イギリス派のためにその金額を取っておく」ことを選んだ(5月14日のベリエの手紙)。5月14日から交渉が行われた。セビリアに移住していた伯爵夫人は、セットで25,000フランでの売却を望んでいたが、1897年の相続の時にはこれらの絵画はセットで75,000フランで見積もられていたのだった(6月11日のフェラルの手紙)。フェラルはベリエの代理として行動した。この売買契約は6月15日に結ばれた。ベリエは4枚の絵画を20,000フランで手に入れ、この購入の知らせをグルノーブル美術館に6月17日電報で送った。彼の財産で購入し、そして即座に寄贈するつもりだったからである。フランスにおけるスペイン絵画マネに関しては数多くのスペイン趣味の作品で知られている。キリストの幼年時代を扱った4枚目で最後の絵画である《割礼》は、「降誕」や「東方三博士の礼拝」よりも頻繁には描かれない場面である。他のスルバランのヘレスの祭壇画と同様にかなり大画面の作品(2.64×1.76m)であるこの作品は、「スペイン・ギャラリー」の展示作品の中でも目立つ作品のひとつであったであろう。スルバランの《割礼》とマネの《スペインの騎士》〔図10〕。そしてスルバランの《割礼》とマネの《果物と水差しを運ぶ少年》〔図11〕について、その共通性については、水差しを持つ子供のポーズにその類似性が認められる。マネの作品の中でしばしば見られる巨匠の作品とのポーズの類似は、彼のスペイン趣味ではベラスケスやゴヤの作品の中でもその類似性が指摘されるように、これもまたスルバランへのオマージュと言えるかもしれない。1963年1−4月、パリのルーヴル宮のマルサン翼の装飾芸術美術館で「スペイン絵― 300 ―
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