鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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研 究 者:九州大学 非常勤講師  羽田 ジェシカ初めに本研究は台湾美術について、特に1920〜30年代初期に絞って論じるものである。この時代は植民統治期初の文官総督時代であり、植民地民も武力抵抗から平和共存の自治を求める方針に転換する中で、新台湾文化の構築を模索していた。彼らの多くは幼時に漢文塾で教育を受けていたため、漢文化とそのルーツである中国が、彼らの近代植民地文化形成の重要な要素であった。統治側が主導した主流文化と台湾の漢文化の問題の双方に鑑み、植民地文化の多様性を考察する必要がある。当時、先に近代化の道を歩んだ日本へ、中国から美術を学びにくる学生が大勢いた。その一方日本では、1911年の清朝崩壊後、王族の所蔵品が流入したり、歴代皇帝の収集品が北京の古物陳列所で公開されたりしたことで、「支那伝統芸術」が再評価されていた。本研究はこのような背景から生まれた美術を、劉錦堂(1894−1937)と陳澄波(1895−1947)を例として考察する。年齢もほぼ同じで生い立ちも似た二人が、異なる時期に異なる地域を選んで中国に渡った理由とその時代的意義、そして彼らの画業の歴史的位置付けを試みる。台湾、東京、北京、杭州、上海、廈門などに及ぶ二人の足跡を追うことによって、近代台湾、中国と日本の美術史の間にある闇に光を当てる。Ⅰ.1920年代前半の劉錦堂劉錦堂は1921年北京に渡り、王悦之と改名して活躍した。存命中は有名であったが、北京で没した後は、息子劉芸が資料を公開して作品を国家美術館に寄贈するまでは殆ど忘れ去られていた(注1)。その後再評価されたが、関心を持ったのは主に大陸外の研究者であったため、調査には困難があった。したがって、彼らの研究は劉芸が呈示した資料に基づく作品解釈が主で、劉錦堂のアイデンティティの葛藤や「油絵の民族化」への試みについての論考に集中している(注2)。劉が北京に渡り、学校創設に拘った理由などはまだ十分に検討されていない。したがって、一次資料を新たに探り、この理由を考察することは、彼が美術を通して成し遂げたかったことを解明する重要な手掛かりになると考える。1912年の中華民国の誕生から1928年に南北統一によって南京が首都になるまで、北― 308 ―  植民地期台湾美術のアイデンティティ─陳澄波と劉錦堂を中心に─

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