鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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京は政治の中心だった。「美育」を重視する蔡元培が1917年に国立北京大学の総長になった翌年、大学の構内に「北京大学画法研究会」を設置し、年二回刊『絵学雑誌』を刊行した。この中には研究会が研究所に改組するまでの略史が含まれている(以下に引用)(注3)。本校校長蔡孑民(元培)先生は美育を提唱するため画法研究会を創立し、本校の学生の画法研究に役立てようとした。1918年7月に(中略)会員を募集、100名あまりの応募があり、22日に研究会が正式に創立した。(中略)1920年1月にはさらに校外から30名あまりを入れて、「画法研究所」に改組し、「中国画」と「外国画」に分けた。(中略)1920年4月に『図画展覧会』を開き、古今中外の名画と研究所会員の作品を展示し、美術家に鑑賞と学習の場を提供した。研究所のカリキュラムには収集家、展覧会での見学が組み込まれ、美術史の講演も行われていた(注4)。この環境は劉のその後の創作理念の土台になった。劉が北京を選んだ理由に、画法研究所の存在に加えて、北京大学が新文化運動のリーダー的存在であったことも重要だったと考えられる(注5)。北京大学は彼の人脈の重要な基盤となった。彼がすぐに受け入れられた様子は、当時の新聞雑誌から窺える。大学の日刊で日本の中国文学者青木迷陽 (1887−1964)の論文を、劉が翻訳したものが掲載された(注6)。劉は大手新聞『晨報』付属の『晨報副刊』に展覧会の評論なども寄せたが、彼が主役だった「阿博洛学会」、「阿博洛美術研究所」に関する報道もある。“阿博洛学会は1921年に劉錦堂、李毅士、呉法鼎、王子雲により発足し、その学会が1923年10月に阿博洛美術研究所を設立し、積極的に学生を受け入れた。”(注7)。“1923年に二回展覧会をし、社会から美術への注目を喚起し、北方美術界へ相当な影響を及ぼした。”(注8)。阿博洛の展覧会は『晨報副刊』で熱い議論を起こした。“情趣に溢れ生命感と趣意がある”《夢》や、“極めて強烈な彩色で病人の情況を表現した”《病後》など、劉の作品は必ず取り上げられた(注9)〔図1〕。1923年5月20日の記事で確認できた現存出品作に、第二回展の《鏡台》がある〔図2〕。しかし、このような評論は1924年以降見られなくなった。財政難のため、当時の北京の教育界は混乱していた。蔡元培は北京大学を去り、また阿博洛のメンバーも次々と北京を去った。1925年の第3回展覧会を最後に研究所は新聞から消えた(注10)。劉に関する記録を再び見ることができるのは、1928年に「王月芝」の名で南に現れてからである。― 309 ―

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