鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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Ⅱ.1920年代後半からの劉錦堂劉は北京に戻った翌年(1930年)に京華美術専科学校の副校長になり、1932年に北平美術専科学校を設立し、校長を務めた。1934年に正規の学校に昇格し、北京で最初の私立美術学校となった(注15)。当時の学校は必ず中国画と外国画、或は国画と西洋画の二学科に分かれていたが、劉の学校は敢えて区別をなくし、学科を一つにした。学生は画材を自由に選ぶことができたが、ただ一つ「必ず写生から入る」という条件があった(注16)。それは明らかに東京美術学校で受けた影響の表れである。劉の作品もその考えを反映している。杭州期の作品《燕子双飛図》は画布と油彩を用いたが、伝統の掛け軸を思わせる画幅に、水墨画のように淡く暈かした絵の具で陰影をつけた〔図3〕。人物は繊細な暈かしで西洋風の立体的表現で描いたが、西洋の遠近法を避け、伝統的な「近、中、遠景」の構図を用いて、輪郭線をはっきりさせた。上述の劉が唯一『亞波羅』で発表した詩(詞)の中の一つはこの絵に合わせて詠まれた。前近代的な「詩画同源」の考えを敢えて油彩で表現したのである。当時の「西洋画」対「国画」の二極的な考えの中、西洋画家の間でも水墨画の製作が流行していたが、それはあくまでも「国画」というジャンルの中での創作である。しかし、劉は明らかに所謂「西洋画」と「中国画」という区別に反対したようだ。その考えは彼が創った学校を通して形になった。自分の理念に沿って次世代を育む、それが彼が1929年に北京に戻った主な理由と考えられる。北方名家の義子になり、北京で家庭を築いた劉にとっての北京は第二の故郷であり、義理の家族や北京大学、「阿博洛」などの関係で長年築き上げた人脈があるため、彼の学校創りに最適な場である。実際、学校創りに主要な出資者は義父の仲間、軍閥の馮玉祥だった(注17)。劉が学校のカリキュラムを通して伝えようとした理念は、1934年に南京の華僑招待所で展示された《台湾遺民図》に集大成されている(注18)〔図4〕。掛け軸のような1928年とは、中国の南北が統一され、南京が首都になり、蔡元培が杭州で国立芸術院を設立した年だった。劉は「王月芝」の名で芸術院で教鞭を執った(注11)。1929年の「西湖博覧会」の芸術館の準備委員会委員も兼任したが、会議には1928年12月10日以降出席しなくなった(注12)。芸術院の雑誌に「亞波羅」があるが、北京では筆まめだった劉が、ここでは一度、詩(詞)を3句寄せたのみだった(注13)。芸術院の主流に日本留学の画家潘天授がおり、劉の沈黙を所謂欧州留学派対日本留学派の対立によるとは解釈しにくい。しかも、当時南の美術界は北京より遥かに活発で、創作には最適な環境であったにもかかわらず、1929年3月前に劉は既に北京に戻っていた(注14)。その理由は、劉が北京に戻った後の活動から窺える。― 310 ―

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