鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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寸法、絹に油彩、宗教画のような構図、伝統人物画法の「鉄線描」を思わせる筆使い、日本画を思わせる色使いと様式化した衣服の描写、など、全てが既定のジャンル間の境界を否定した表現である。並んで立つ三人の女性はそれを見る私たちを直視し、右の女性の手のひらにある目も我々を見つめる。真ん中の女性の手には地球儀がある。遺族によれば劉はこの絵に関して説明しようとしなかった(注19)。それは、構図の一部となっている、絵の上方中央にある落款「台湾遺民」が既に全てを物語っているからではないだろうか。Ⅲ.陳澄波と上海劉錦堂と対象的に、陳澄波は中国に滞在中も台展に参加し、台湾に戻ってからも終始台湾美術界の主役だった。陳は戦後二・二八事件で犠牲になったため、長い間タブー視されていたが、「台湾意識」が高揚していく中、台湾の町と風景を描いた彼の作品にも関心が集まり、台湾本土文化の英雄として尊敬されるようになった。長年沈黙を守っていた遺族が近年資料を公開し、所蔵作品を積極的に展示するようになり、陳に関する著作も数多くなってきた(注20)。ただその対象は陳が台湾に戻って以降の作品に集中し、大陸に渡った頃の資料は乏しいため十分に研究されていない。しかし、作品から見ても、1928年の初めての中国の旅と、翌1929〜33年の上海滞在が陳の創作に重要な転機を与えたことは明らかである。筆者の先行研究で、陳の中国風景画を、当時の台湾知識人が地理的な境界を越えた新台湾文化を築く試みの一環として位置づけた。日本、台湾と中国を舞台とする陳は、三地の共通点を求めて得た結論として《清流》のような、水墨伝統を汲む作品群を描いた〔図5〕。それは、彼が三地共有の漢文化及び水墨画伝統を基に見つけた表現様式であり、彼の台湾出身画家としての立脚点でもあった、と指摘した(注21)。本調査で新たに明らかにしたことの一つは、陳は新華芸術専科学校と昌明美術学校で教鞭を執ったが、芸苑絵画研究所が彼の創作活動の拠点だったことである(注22)。芸苑とは、自由研究を重視する若手画家たちが上海で創った研究所で、日本画壇と関係が近く、中国近代美術に重要な役割を果たしたグループであった。1929年に芸苑が出版した『芸苑概況』の「創立宣言」によれば、江小兼、張辰伯、朱岐瞻、王済遠が1928年10月1日に絵画研究所を立ち上げた(注23)。創立の趣旨は「芸術への興味を促進し、研究の精神を向上させ、固有文化を高め、専門の人材を育む」ためである。定員30名で研究員15名、研究生15名の編成だった。「指導員一覧」に「陳澄波先生 東京国立美術学校畢業」の記入があり、陳を含め11名の指導者が並んでいる。陳の、― 311 ―

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