鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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1929年の「教育部全国美術展覧会」に出品した《清流》が掲載され、現在遺族所蔵の《清流》と同一のものと考えられる〔図6〕。上海で中国美術界の最先端の画家たちと共に切瑳琢磨した陳は、創作のあらゆる可能性を試したようだ。上海で見つかった『芸苑美術展覧会専号』第一号に《普陀前寺》と《自画像》が、第二号には裸婦が掲載されている(注24)。第二号の西洋部門は人物画をテーマにしている。陳は1930年代に入ってから裸婦像に頻繁に取り組んでいるが、ここには芸苑の影響があったと推測できる。Ⅳ.陳澄波、台湾と中国東南沿海日中関係が悪化したため1933年に台湾に戻った陳澄波は、1935年に《琳琅山閣(逸園)》を描いた〔図7〕。琳琅山閣は嘉義の医者張錦燦と妻、張李徳和(1892−1972)の庭園「逸園」にある邸宅である。張李徳和は画家、漢詩人であり、漢文教師でもあった。日本語教育を受けた台湾新世代知識人としての張夫妻は逸園で閩南語(南福建の方言)の漢詩社と伝統絵画を汲む書画会を興し、同好と応酬するなど嘉義の文化の中心的存在だった(注25)。陳澄波も張家のサポートを得、逸園をよく訪ねていたようだ。《琳琅山閣》について陳澄波は以下のように説明した。「逸園は嘉義の医師張錦燦の庭園の一部で、中国古来の画風を真似て東洋的気分に之を現はした一幅の南宗絵です(下略)。」(注26)。上海にいた頃から陳は伝統絵画の筆法に特に関心があり、芸苑を通して水墨画家張大千(1899−1983)兄弟、潘天授(1897−1971)などと交流し、古画に関する勉強もした。本作に強調された線の趣と独特な構図はその努力の結果であり、陳は油彩を用いて現代風南宗画を試みたのである。これについては改めて稿を起こして論じたいが、ここは先ずテーマについて考察する。逸園の活動を仕切った張李徳和は、陳澄波の仲間林玉山(1907−2004)などが作った画会「春萌会」の会員でもあり、1937年まで2回台展に入選した。画会は詩社の会合と連動することもあり、その活動は特に内地人(日本人)が比較的少ない台湾中南部で活発だったようである。植民地では主流の日本語文化と並行して「閩南文化」が存在し、《琳琅山閣》で陳澄波の文化アイデンティティの寄り処の象徴として表現されている。陳澄波は、中国にいる間も美術の情報を提供するなど彼らの活動を支持してきた。林玉山は、詩社や画会と関わっていたこの時期に、近代の写生と伝統絵画を融合させようとした、と語っている。彼は陳澄波が毎回中国から持ち帰った中国の画集と画家資料に強い関心を持っていた(注27)。会員たちは水墨画だけでなく「東洋― 312 ―

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