−1982)がいる〔図8〕。王も逸園を訪ねたことがある〔図9〕。画」、特に日本の南画に関心をもち、張李徳和のように台展の「東洋画」部で入選した人も少なくない。彼らは伝統絵画の情報を中国に求めながら、日本画の中に伝統を再生する道を探っていた。陳と上海芸苑の水墨画家たちとの関係のように、彼らとの交流はお互いの画業に大きな影響をもたらしたのである。筆者は先行研究で廈門、シンガポールの閩南文化について考察する際、廈門美術専科学校に台湾の富裕層が出資し、台湾からの留学生もいたなど、台湾と廈門美術の関係に若干触れた(注28)。その後に行われた、台湾と廈門の関係を調査した結果の一部を以下に、王逸雲を中心に手短にまとめる(注29)。陳と交流した中国画家に、同じ頃に東京の本郷絵画研究所に留学した王逸雲(1895王は1918年に廈門絵画学院を創立し、後にシンガポールで南洋美術専科学校を創立した林学大(1893−1963)などと共に廈門の美術界の中心人物だった(注30)。しかし、王は戦時中日本軍に汕頭に送られ、戦後は台湾に移住したが画壇と関わらなかったため、廈門での活躍ぶりは知られていなかった。荘伯和が1976年に王を訪ね、一度『芸術家』雑誌で紹介したが、当時はまだ戦前美術に無関心な時代であり注目されなかった(注31)。遺族のもとに、王の東京留学時代の作品一点の写真がある。素材は水彩のようだが、水墨画風の筆使いが目立つ〔図10〕。荘伯和が1976年に撮影した1929年の油絵《同安県馬巷的風景》の写真も、全般的に水墨画風の暈かし表現が特徴的である〔図11〕。結論から言えば、陳と廈門は近年考えられていたよりも遥かに緊密な関係を持っていた。王逸雲とも、これまで考えられていた1927年よりも前、遅くとも20年代前半には出会っていたと考えられる(注32)。王氏夫妻は裕福な家系の出身で、妻の実家は台湾で茶商を営み台湾とのゆかりが深かった。廈門絵画学院は当初自宅にあり、場所を移ってからも自宅に芸術家が集った。展覧会を開くために二度だけ廈門を訪ねたと思われた陳澄波も実は王と親しく付き合った画家の一人であり、日本軍が1938年に廈門を占領するまでよく王家に泊まっていた(注33)。王逸雲の遺品に、林学大が陳と共に写った写真が複数ある〔図12〕。陳澄波と林学大との間に交流があったことは、両家の子孫にも知られていない。政治的な境界と関係なく、閩南語が繋いだ独自の美術の世界を、王の古いアルバムが静かに語っている。王は、実は台湾と日本、廈門の美術関係を解明する鍵を握る重要人物であったと思われる。1928年8月の第一回福建全省美展での働きが大きかった王は、台展を見て感銘を受け、ならって展覧会を故郷にも実現したという。陳もその展覧会に出品し、翌年に審査員になった(注34)。陳― 313 ―
元のページ ../index.html#323