鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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が上海にいた時に新華芸術専科学校に福建同郷会があったように、当時の中国には、「閩南意識」で結ばれた日本と関係が深い美術活動のネットワークがあったことは確かである(注35)。とりわけ、陳の1929年以降の創作に水墨画伝統の要素が見られることには、日本、芸苑、逸園の他に、王逸雲との交流関係も影響している。むすび劉錦堂が日本にいた1916〜20年の期間は中国の五・四運動の時期と重なり、青年たちは新文化運動と反植民地運動に燃えていた。一方、陳が日本に滞在した1924〜29年の間は日中文化交流が盛んな時期だった。1920年の北京は中国の首都で、北京大学画学研究所などに人材が集まって、中国の美術をリードする機運があった。一方、陳が初めて中国に行った1928年には中国は統一され、首都は南京に移って、杭州に国立芸術院が設立された。南と比べて、北京はすでに色あせていた。彼らがそれぞれ北京、上海を選んで渡ったことはその時代の情況を確実に把握して出た結論であり、二人の画業は時代の変動をそのまま反映したのである。二人は共に油彩での伝統水墨画の再生を試みた。水墨画への関心は当時の日本と中国美術界の共通な傾向だったが、他の中国画家と違って、二人は当時中国で「国画」と呼ばれる水墨画を創作しなかった。彼らは日本で身につけた、アジアでは最先端の油彩技法を基に、水墨画の筆法と構図を用いて近代版の「伝統絵画」を創出しようとした。中国に渡った二人は、同民族ながら異郷人として、台湾と共通の記憶を求めて水墨画の伝統に辿りついたともいえよう。北京で骨を埋めた劉錦堂は晩年まで台湾の家族友人と交流があり、その思いを古風の漢詩で綴った(注36)。彼は《台湾遺民図》で自分を台湾の遺民として人生の幕を閉じたが、彼は自ら創立した美術学校を通して美術理念を教え、多くの美術人材を送り出して中国近代美術の展開に貢献した。一方、陳澄波は台湾で処刑される直前の牢屋で走り書きした遺書で「十二万同胞のために死ぬ事に悔いがない」と書いたように、台湾に戻った後は台湾を描きつつも、1947 年の陳の心は台湾に止まらず大陸にまで及んでいた(注37)。二人の人生は、台湾、日本、中国三地の関係に翻弄されながらも、この三地に共通する独自の美術を創出するため真摯に探求し続け、時代を代表する画家となった。その画業も東アジアの美術史を語る上で不可欠のものとなったのである。付記:本調査は陳澄波、劉錦堂、王逸雲、林学大のご遺族に温かいご助力をいただきました。心から御礼を申し上げます。― 314 ―

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