研 究 者:大原美術館 学芸員 サラ・デュルトイタリアの首都、ローマの南に位置するEURエウル地区は、その名を1942年に開催が予定されていたローマ万国博覧会Esposizione Universale di Roma 42(下線は筆者による。以下、ローマ万博(注1))の頭文字に由来する(注2)。ムッソリーニの希望により、ファシスト党による“ローマ進軍”の20周年を記念して1942年に開催が予定されていたローマ万博は、第二次世界大戦の勃発とそれに伴う戦費の増大により工事費が窮乏したことから建設が中断し、ファシズム政権の崩壊を受けて計画が頓挫する。戦後一時荒廃しかけたが、50年代から70年代にかけて、ほぼ完成していた建築物については補完され、廃墟に近いものは解体されるなどして再整備が進み、閑静な住宅街を一方に備えた官公庁やオフィス街を主な機能として持つ街区として現在に至っている。そもそもの発端をファシズムという負の遺産に負い、屈折した歴史を持つエウルについては、1987年に、それ自体ローマ万博において軍事館(自治・協調組合および社会保障の展示)として計画されていた国立公文書館において総括的な展覧会が開催され、公文書館の保管するE42関連の膨大な史料の一部が掲載された浩瀚な展覧会カタログが出版された(注3)。その後、幻に終わった計画や建築物、都市空間のモニュメンタリティに関連して、建築史、都市計画学、都市工学の側面から少なからずの研究がなされてきている。しかし、「見せる装置」としての役割を万博から直接引き継いでいるともいえるエウルの文化施設に関しては、1995年に出版されたガイドブック(注4)を除くと総体的に扱われた例は見当たらない。それまでに開かれた万博と異なり、会場全体が「帝国の首都ローマの新しいモニュメンタルな街区」として恒久的に存続することを希求したローマ万博についてこそ、当初計画と現在の展示施設とを関連付けて考察することは、展示を通して表現される「イタリア」像の変遷を考えるうえで意義深い。今回、エウルに現存するミュージアム施設を実地調査し、関係者から話を聞く一方で、ローマ万博の展示計画に関する資料を調査することで、いくつかのあまり知られていない史料の存在が明らかになり、興味深い事実を引き出すことができた。以下において、簡潔に紹介する。現在、エウルには以下の5つのミュージアム施設がある〔図1〕。― 320 ― イタリアを展示する─幻のローマ万博(1942)跡地エウルのミュージアム施設─
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