鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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1939年に開始された工事は本来なら1941年の3月に竣工する予定であったが、結局、1952年に主に広場の部分に大幅な変更を経て完成された。59の展示室で構成される内部スペースについては大きな変更なく実現され、博物館は1955年の4月21日に全館オープンする。ローマ建国紀元と日を同じくしており、ローマ万博も、13年前のこの日を開会日としていたことを思い起こしておきたい。「内部では1938年にローマ、ナッツィオナーレ通りの展覧会場で開催された『古代ローマ性展』が、同じ要素、同じクリテリオで再編成される」と、ローマ万博の広報(注9)にもあるように、アウグストゥス帝生誕2000年記念に開催された「ラテン文明が持つ世紀を超えた帝国的価値を称揚し、古代ローマとファシズムの普遍主義をたたえる展覧会(注10)」がそのまま移される予定であった。新聞報道によると、ムッローマ文明博物館(2004年より内部にプラネタリウムと天文科学館も併設(注5))、民俗伝統博物館、ルイジ・ピゴリーニ先史民族博物館、初期中世博物館、郵便通信博物館である(注6)。ローマ万博では、現在はG. マルコーニ広場と呼ばれる旧帝1.ローマ文明博物館 Museo della Civiltà Romana威圧的な外観を持つ建物〔図2〕で、万博当初から現在の用途と同趣旨の展示館として計画されていた。連続する円柱の先にある出入口の上部には羽を広げた鷲が三羽表されている。これは、古代ローマの勝利の記憶にあやかったもの(注7)で、特にイタリア近代においては空軍のシンボルとされた。ファシスト党のシンボルの一つにも数えられるが、ここではこの建物が自動車産業で知られるフィアット社の出資によるもので、当時同社が空軍機、海軍機の製造にも深く携わっていたこととも関連付けられる。当初案では、中央の広場には建物を背に巨大なムッソリーニの騎馬像が建つはずで、他に人工池、四体のブロンズ像、広場を取り囲むように聳え立つ建物の上部には向かい合うように並列四頭立て2輪馬車(ローマ時代の戦車)を配して、「帝国広場からのファシスト党の勝利を祝う道筋の締めくくり(注8)」となるように構想されていた〔図3〕。― 321 ―■■■■■■■国広場を囲むように建てられた四棟の建物で、博物館区画を形成する予定であった。これらは今も、民俗伝統館、科学館、近代美術館、古典美術館と呼ばれる。そして、その区画と横軸を共有し、東側の奥に位置するのが、ローマ文明館である。つまり、現存するミュージアムのうち2館が当初から同趣旨の展示施設として存続することを想定され、2館が他の内容の展示が予定されていた建物を借りて開館しているのである。

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