関の展示部門として存在しているこの博物館もまた、万博当初から恒久的に同じ趣旨の展示施設として存続することが予定されていた。コレクションの核となっているのは、民族学者のランベルト・ローリア Lamberto Loria(1855−1913)の収集品で、イタリア建国50周年を記念して開かれた1911年の民族学博覧会で人々の知るところとなった。国立の博物館の設立が提案されたが、1913年にローリアが早世したことにより、文字通りお蔵入りとなってしまう。1923年に開設の通達が出るものの、適当な場所がなく断念され、結局1956年に開館するまで日の目を見ることがなかった。ローマ万博時にはティヴォリに保管されていたローリアの収集品を巡り、万博で展示するにあたっての性格付けや展示について、実行委員会が組織され、展示の内容について複数の報告書が残されており、識者同士で意見交換会も持たれている(注15)。詳細に述べるには今後更なる分析が必要だが、意見をまとめた最終案の中には、平面図に見える円形の展示室に、「イタリアの伝統的な生活の総括」として統領の家が再現される計画があったことが明記されている(注16)。他の展示室とは様相を異にする、一種聖堂の後陣のような場所に時の政治権力者の生家(注17)を民衆の代表として可視化する試みがなされようとしていたといってよい。博物館に個人崇拝のための象徴的な場を与える計画があったことは見逃せない。建物は、1939年に着工され、概ね当初の建築計画に則って工事が進められるが、第二次大戦後に手が加えられて56年の開館を迎えており、現状では円形展示室自体が存在しない。一方、戦前の展示空間を今に伝えるものとして、大広間には、1941年から43年にかけてイタリア各地の民衆行事を10人の画家が描いたフレスコ画があり、これらは未来派の芸術家たちが手がけた建物の外部装飾であるモザイク画とともにエウルの装飾芸術として頻繁に取り上げられるものである。芸術家や画題の選択等についての詳しい分析は他稿に譲る(注18)が、ファシズム期の公的なバックアップもあり民衆芸術が熱狂的な支持を集めていたローマ万博時に特徴的な時代性を反映したものとされる。もともと非西洋の民族研究をしていたローリアが、イタリア本国の民衆生活にかかわる物品が産業化の陰で失われていくのを憂えて形成したコレクションであり、その自他を区別しない普遍的な視点が強調されがちであり、ローマ万博時に新規収蔵品はない、とのことであるが、展示物自体の変更はなくとも展示によって特定のイデオロギーが発信されようとしていたことは紛れもない事実であり、留意してよい。― 323 ―■■■■■
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