50年代に確認された中世に関する歴史学の再興を受け、中世の考古学博物館の創設の必要性が認識され」、1967年に開館したという。しかし、エウルが「ローマから海へ」の道の上に計画されたことと決して無関係ではなく、先述のローマ万博の広報は「オスティアの発掘現場」について一章を設けて、ローマからエウルを経てオスティアへ至る幹線道路により「E42は来場者に唯一、イタリアのみが実現できる特別な情景:(すなわち)すっかり復元されたローマ時代の町を供」すべく、遺跡の発掘が急ピッチで進められていたことを伝えている(注20)。万博で予定されていた数多くの展示一覧の末尾「第10部門 オスティア・アンティカ」の項には、(c)「発掘現場のミュージアム(常設建築物)」とあり、初期中世博物館の最新の展示は、これが長い年月を経て実現されたと考えられるのである。5.イタリア文明館 Palazzo della Civiltà Italiana“文明の祭典”をモットーとし、「世界の進歩へのイタリアの多大なる貢献にささげる」ローマ万博において、何よりも力が注がれていたミュージアム施設が、イタリア文明館(注21)であった。現在のエウルにおいて最も象徴的な建物で、縦6段、横9列の54のアーチの並ぶ四面体という独特の姿から「四角いコロッセオ」とも呼ばれる、E42の中で最も建設が進んでいた建造物の一つである〔図5〕。実現されることなく終わったが、1階から最上階までの各フロアの展示図面が存在し、また、詳細な展示物リストから、何がどのように展示されようとしていたかをつぶさに知ることができる(注22)。詳細な分析は別稿(注23)を参照されたいが、最上階から1階まで7階分全てのフロアを使って、先史時代からムッソリーニの時代まで、イタリアの歴史と文明を歴史的人物や出来事、文化的遺産などをあらゆる事象を総動員した展示が計画されていた。来館者には1階から入り、最上階まで上がって順に降りてくる順路が設定され、最初と最後にファシズムの展示を目にすることになり、祖国の英雄たちの末尾を飾る、統領への熱狂はいやがうえにも強調される仕組みであった。むすびにかえて現在は建物の名前のみにその跡をとどめる、ローマ万博の古典美術館と近代美術館については、古典美術館において1200年代から1700年代までの美術が、近代美術館において1800年代以降から同時代つまり1930年代までの美術が、展示される計画であった(注24)。■■■■■― 325 ―
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