鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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古典美術の展示については、「最終報告書と展示に含まれる作品のリスト」(注25)が存在し、それによると、「国際博覧会のモットーはイタリア文明の礼賛であるから、“古典美術の展示”においてそのことが最もはっきりと確認できなければならず」、「“古典美術の展示”は、全ての人類が自分たちのものとして認識し、様々な歴史的状況を超越しているようでいて、まさにイタリアの血統の本質でありイタリア文明を最も高く表現しているものであり、全ての民族、全ての芸術に対してイタリアがもたらした偉大なる賜物、イタリア美術の傑作のみを集めることになる」とある。「国立の絵画館を貧弱なものにしないために、多くの場合、劣悪な展示・保存状況にある個人や教会のコレクションの供出を呼びかけ、海外の公的私的なコレクションにも出品を要請する」としたリストは錚々たる名作揃いで、ドリームプランとはいえ力の入ったものであったことがわかる。美術よりも建築を好むムッソリーニの意向の有無、展示館の建設の進捗状況や展示物の性格の違いから単純に比較することは出来ないが、計画段階の史料の少なさからは今ほどに美術に肩入れしない政治体制であったようにも受け止められる。これに関連して、1943年の1月に統領の同意を得た事項(注26)として、古典美術館が、当時も今もローマの特別展会場であるナッツィオナーレ通りのパラッツォ・デッレスポジツィオーニを引き継ぐ定期展覧会場となることが想定されていたこと、近代美術館については、ヴァッレ・ジューリアの国立絵画館を移転する計画であったことなど、現在のローマ中心部の美術館地図を塗り替えかねない驚くべき計画があったことを伝える。もちろん実際に実行されることはなく、エウルには上述したミュージアム群が出現するに留まった。翻って現在のエウルのミュージアム施設について考えると、名立たる美術館の割拠するイタリア、中でもローマにあって、それぞれの独自性を十分に魅力としてアピールできるには遠く及んでいない。今回の調査で、それぞれのミュージアムが、ファシズム期の遺産を様々な次元で内包しながら、よりよいあり方を模索し続けているという現状を目の当たりにした。1936年にローマ万国博覧会協会として発足し、2000年に不動産開発企業に移行したエウル株式会社のウェブサイトに「ミュージアム組織」を銘打ったページ(注27)があり、イタリア文明館のミュージアムとしての再活用を含め、エウルにあるミュージアム施設の連携による観光資源としての魅力の創出が謳われている。エウルは、「イタリアを展示する」という使命を帯びた施設が様々な文脈で成立しうることを確認できる貴重な事例であり、今後、どのような道が選択されてゆくのか、注意して見守りたい。― 326 ―■■■■■

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