研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 石 井 香 絵はじめに京都の洋画家が団体として継続的に活動しはじめたのは、明治34年(1901)6月に京阪の洋画団体・関西美術会が結成されてからのことである。翌年9月には浅井忠が京都に移住し同会会員となり、明治36年(1903)に聖護院洋画研究所、明治39年(1906)に関西美術院が開校した。京都の洋画史はこの浅井忠の移住から関西美術院の開校までに焦点が当てられることが多いが、関西美術会の結成やそれ以前の洋画家の活動については十分な研究が行われていない。また、明治末年から大正期にかけての関西美術会や、関西美術院に学んだ新しい世代の活動についても課題を多く残している。本研究は京都洋画に関する基礎的な調査を目的とし、主に美術関係の記事を豊富に掲載した当時の地方新聞『京都日出新聞』の閲覧をもとに明治大正期における京都洋画史の見直しを行った。本稿では調査の結果明らかとなった内容を中心に、各時代の状況を述べる。なお、大正期については基礎調査が十分な期間に及ばなかったため、今後の展望を述べつつ研究報告を行うこととする。・京都府画学校明治前期の出来事としてまず挙げられるのが京都府画学校の創設である。京都府画学校は明治13年(1880)7月、京都御苑内旧准后里御殿を仮校舎として開校した。設置された東西南北の四宗の学科のうち、西宗は「罫画油絵水画鉛筆画等」を専門とする、京都で最初の洋画教育の機関となった(注1)。教員は開校から明治14年(1881)11月までを小山三造、同年12月から明治22年(1889)10月までを田村宗立、同年11月から明治23年(1890)5月までを疋田敬蔵が担当した。ただし田村は開校時から、疋田は明治17年(1884)8月から同科に出仕している。西宗(明治21年(1888)4月より西洋画科に改称)は一時期最も人気の学科であったが、疋田の辞任後は後任が置かれず、そのまま廃止となった。明治23年(1890)2月21日の『京都日出新聞』の記事には、西洋画科が疋田の辞任する前から既に廃止される予定であったことが伝えられている(注2)。この時期に関して今回の調査では特に、西宗教員であった田村、小山、疋田に関する新たな経歴を確認することができた。― 332 ― 明治・大正期を中心とする近代京都洋画壇の研究
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