・田村宗立画学校西宗の教員を最も長く務めたのは田村宗立である。田村の在任期間中における西宗の活動としては、明治19年(1886)12月の琵琶湖疎水工事の写生と、明治20年(1887)2月に開催された京都新古美術会への出品が挙げられる。どちらも明治20年1月の行幸啓にあわせた取り組みであった。当時の京都府知事・北垣国道に疎水工事の写生を命じられた田村は、西宗の優秀な学生10人を連れて現場に赴いている(注3)。京都新古美術会では田村が油絵を2点、鉛筆画を1点、疋田敬蔵が油絵を2点出品している他、西宗の在学生28人が鉛筆画、灰筆画、擦筆画、油絵を出品している(注4)。また、明治21年(1888)10月に行われた洛東霊山招魂場の招魂祭では、余興として西洋画科の学生の作品が展示されたようである(注5)。さらに画学校辞任後の出来事としては、明治24年(1891)11月に四条で同年10月28日に発生した濃尾地震の被害状況を伝える幻燈会が開かれ、幻燈画を田村が担当している(注6)〔図1〕。明治27年(1894)3月に写真品評会京都支会が組織された際には、田村は岡崎一直、成井賴佐、堀真澄等とともに常議員に就いている(注7)。明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会に際してパノラマ館が新築され、田村が絵画を担当したことは既知の通りである(注8)。明治20年代以降、田村は在来の洋画家とともに洋画壇の形成に努めることとなったが、同時に洋画家として複数の媒体に寄与していたことは注目すべきであろう。・小山三造小山三造が画学校西宗の教員を辞任したのは明治14年(1881)11月である。辞任の理由は定かでないが、以後の小山の活動は主に石版業であった。明治21年(1888)10月の『京都日出新聞』に、小山が小谷儀一という人物とともに石版印刷業を開業した旨の広告が掲載されている(注9)〔図2〕。同広告には「京都室町通綾小路角 博成社 委員 小谷義一 小山三造」と記載があり、博成社という社名が確認できる。開業の旨を述べた文中に「社友ト謀リ石版印刷ノ業ヲ開キ」とあることから、博成社はもともと存在していた印刷会社であり、石版印刷業は同社に勤めていた小山と小谷が社内で新たに立ち上げた事業と推測することができる。この開業を記念して「石版■京名所額画」〔図3〕と『洗張浮世模様』〔図4〕が出版された。また同年11月には竹内棲鳳、谷口香嶠等が煥美協会を組織し『美術叢誌』を創刊した際(注10)、初め同誌の印刷と発行を担当したのは疋田敬蔵であったが、煥美協会での出版が難しくなったため、小山に版権を譲り、発行が継続されることとなったよ― 333 ―
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