鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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うだ。以後『美術叢誌』は『美術』と改題され、博成社から発行されることとなった。「石版■京名所額画」は前述の広告に「四十八版ノ内 二十二版 出版 殘リ二十六版續々出版」と記載があることから、京都名所全48図を予定して、広告が掲載された時点では22図が既に出版されていたことが分かる。明治22年(1889)3月発行の『美術』2号の広告欄では26図に増えている(注11)。その後も制作を続けていったものと思われ、現在29図が確認されている(注12)。作品は多くが単色石版に彩色が施されたもので、絵の外側の余白部分に題名と印刷日、出版日、小谷と小山の住所氏名が記載された紙が貼られている(注13)〔図5〕。さらに割印として博成社の朱印が押されている。画中のサインはMSと記入されているものが多いが、TSやGS、XSの場合もある。Sは三造の頭文字である可能性があるが、その他のM、T、G、Xが何を表すのかは定かでない。『洗張浮世模様』は「前編上之巻」のみ確認できる。編集の「錦鱗子」は久保田米僊の別号で、本書は米僊による山東京伝の『洗張浮世模様』を模した全頁多色刷りの図案集である。『美術』第1号と第2号に「弊社(本社)の久保田米僊」と記載があることから、米僊は博成社の社員であったと考えられる(注14)。『美術叢誌』は1号、『美術』は1号から3号まで確認できる。『美術』は絵画作品、論説、美術界の雑録等からなる雑誌で、巨勢小石、幸野楳嶺等が絵画作品を掲載している(注15)。1号には法隆寺所蔵の玉虫の厨子に描かれた須弥山の図が縦74cm横52.5cmの用紙に、3色刷りの石版画として再現され、3号には牧谿筆とする観音像が縦136cm横43cmの用紙に単色刷りの石版画で複製されている。これらの図は小山の手によるものと思われる。・疋田敬蔵疋田敬蔵もまた石版業に従事していたようで、画学校出仕時から聚英館疋田石版所という印刷会社を経営している(注16)。同社の出版物としては、明治21年(1888)2月発行の石版画集『恵蘭画譜』が知られている。また上述したように煥美協会発行の『美術叢誌』は、1号については発行所が煥美協会、発行兼印刷人は疋田敬蔵と記されている。さらに疋田は明治20年(1887)2月に数名の有志者とともに「工芸画学講習所」を開き、「欧和両風の画学を教授」し工芸家を養成する機関としている。ここでは英語も教えていたようで、翌月には教室が狭くなる程生徒が増加したという(注17)。小山と疋田は後の洋画壇の形成に関わってこなかったため重視されることが少ない― 334 ―

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