鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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が、石版画家としての活動を追うことで日本画家との交流の様子等新たな事実が明らかとなった。小山の博成社としての経歴と、疋田の工芸画学講習所に注目しつつ、今後も作品発掘に努めていきたい。・関西美術会結成まで明治23年(1890)に画学校西洋画科が廃止されてから、明治34年(1901)に関西美術会が結成されるまでの10年間は、京都の洋画団体が形成される基盤を作った重要な期間であった。この時期の洋画家の活動は主に、大阪の洋画家との交流と、京都美術協会を中心とする京都画壇全体での活動とによって展開されていた。京都と大阪の画家との交流は明治25年(1892)に開かれた二つの洋画展覧会や(注18)、大阪で明治27年(1894)に第一次、明治29年(1896)に第二次関西美術会が結成されていたことから窺える(注19)。当時の京都では田村宗立と、明治24年(1891)12月に原田直次郎の画塾鍾美館での修業を終えて帰郷した伊藤快彦が中心的に活動していた。中村勝治郎も明治29年(1896)までは京都で展覧会の出品を重ねている(注20)。守住勇魚、印藤真盾も京都に住んでおり、守住は図画教師の職に就いていたが、印藤の京都時代の経歴については詳しく分かっていない。洋画家の活動は当時大阪の方が盛んであったようだが、明治30年頃から次第に中心が京都へと移りはじめている。明治28年(1895)に京都で第四回内国勧業博覧会が開かれ、同年から京都美術協会が主催する新古美術品展覧会が開催され始めたことによって、京都の街や美術界全体が活況を呈するようになったためだと思われる。田村や伊藤は以前から京都博覧協会が主催する展覧会に出品していたが、新古美術品展覧会以降さらに洋画家の出品が増え、明治29〜30年(1896〜7)頃には櫻井忠剛、小笠原豊涯が京都に移り住んでいる。また、展覧会の開催・出品だけでなく、伊藤や櫻井については同地の日本画家や新聞記者等との交流の様子も見られる。伊藤は明治32年(1899)11月5日から6日にかけて、京都日出新聞記者の黒田天外(譲)、鈴木派の海外天年とともに滋賀の永源寺を散策している。黒田はこの旅行記を『京都日出新聞』に連載しており、伊藤が道中スケッチや写真撮影を行っている様子も記録されている(注21)。明治34年(1901)10月11日には伊藤と櫻井が同新聞記者の金子静枝(錦二)、写真家の成井賴佐他数名とともに洛西地区の名所観光を行ったようだ(注22)。さらに明治33年(1900)12月の『京都日出新聞』には、山元春挙と櫻井が「東京より来りし某洋画家」を伴い若王子の伊藤宅を訪問し、黒田天外とともに画談に興じた様子が伝えられている(注23)。― 335 ―

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