鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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当時の伊藤、櫻井、山元、黒田の年齢は20代後半から30代前半である。関西美術会結成の原動力としては、こうした同世代の画家や記者からの刺激も大きかったのではないだろうか。・関西美術会の結成関西美術会は明治34年(1901)6月16日、京都倶楽部で発会式を行なった。京都の洋画家が団体として注目されはじめたのは同会以降のことであった。最初に結成が報じられたのは同年5月16日の『京都日出新聞』である。記事には「京阪の洋画家はこの際団体の必要を感じて、過般来より/\相談があつたが、田村宗立、伊藤快彦、櫻井忠剛など専ら斡旋し、団体の会長には理工科大学長の中澤氏を推戴せんとまでに進んだそうな(注24)。」と記載され、洋画団体の結成を奨励する内容へと続けられている。以後も結成を喜ぶ声は多く(注25)、他に『大阪毎日新聞』、『読売新聞』、『絵画叢誌』、『日本美術』でも会の結成が報じられており(注26)、関西で洋画家主体の活動としては前例のない規模であったことが分かる。関西美術会は6月4日に発起人会を開き規則案を議定し、15日に京都市議事堂で創立委員会を開いた(注27)。同会の役員は会頭が中澤岩太、幹事が金子静枝(錦二)、大澤芳太郎、委員が田村宗立、櫻井忠剛、伊藤快彦、牧野克次、松本硯生、山内愚僊、松原三五郎に決定した。発会式では中澤、松原の挨拶、京都大学総長の木下廣次の講演等が行なわれた。別室には会員の油絵や鉛筆画が並び、水彩画や焼き絵の席上揮毫が行なわれている。来賓の山元春挙と竹内栖鳳も参加し、春挙が薔薇の花、栖鳳が黄蝶を油絵で描いた(注28)。これに対して田村は日本画を揮毫し、発会式は盛況であったという。現在伊藤快彦の実家であった熊野若王子神社には、この時春挙と栖鳳が描いた図と同じバラと黄蝶の油絵が残されている〔図6〕。裏には「蝶 竹内栖鳳筆 バラ 山元春挙筆 合作伊藤快彦宅来訪の砌」と伊藤の子息・伊藤快則氏の筆跡で記されているが(注29)、これが関西美術会発会式の折の席画であった可能性も十分あるように思われる。この年関西美術会は9月に第1回批評会、11月に京都彫技会と合同で第1回秋季展覧会を開催している(注30)。翌年明治35年(1902)には新設の京都高等工芸学校の教員として牧野克次、浅井忠、都鳥英喜が京都移住し、京都洋画はますます活性化することとなった。― 336 ―

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