・双鳩会、スケッチ同好会浅井忠を院長として関西美術院が開校した明治39年(1906)3月以降の約1年9ヶ月は、京都洋画壇における最も充実した期間であった。しかし明治40年(1907)12月に浅井が急逝した後は、京都を離れ東京や海外留学に向かう画家が多く見られはじめる。関西美術会や関西美術院の最盛期は徐々に過ぎつつあったといえるが、明治末年頃から大正期はじめまでは鹿子木孟郎、河合新蔵、寺松国太郎、伊藤快彦、都鳥英喜等は依然として洋画壇の中心的な立場にあった(注31)。その一方で、関西美術院に学んだ次世代の画家たちによる活動も始まっていた。関西美術会は以後も定期的に洋画展覧会の開催を続けていたが、これとは別に京阪の洋画家の交流の場として、明治44年(1911)1月から双鳩会という懇親会が始まっている。参加者は鹿子木、河合、寺松、伊藤、都鳥の他、大阪の山内愚僊、赤松麟作、矢崎千代二等であった。主に京都と大阪が会場となったが、奈良で開催されることもあった(注32)。同年4月の双鳩会では田村宗立も出席し、文久年間に洋画研究を思い立った動機について語っている(注33)。同会は大正末頃まで続いたようだ(注34)。さらに伊藤、河合、都鳥、寺松は洋画趣味普及のために同年10月から写生旅行と展覧会からなるスケッチ同好会を開いており、翌年5月まで活動が確認できる(注35)。・次世代の活動、大正期の関西美術院同じ頃、新たな世代の活動として田中喜作、津田青楓、黒田重太郎、土田麦僊、秦テルヲ等による黒猫会や仮面会が結成されるが、大正期の調査を進めるにあたって特に注目したいのは、次世代の関西美術院との関わりである。大正4年(1915)に鹿子木が関西美術院の研究生の大半を引き連れて院長を辞した際、同院は最も苦難な時期を迎えることとなったが、この時代の美術院を支えたひとりが、前年にフランス留学から帰国したばかりの安井曾太郎であった。また黒田重太郎によれば、同院が持ち直しはじめたのは黒田が教鞭をとりはじめた大正8年(1919)頃からであり、一時期は澤部清五郎や田中善之助等教授陣の顔ぶれも賑やかであったという(注36)。大正期の関西美術院についてはあまり言及されることが無いが、私塾である同院が今日まで継続し得ているのは、こうした黒田を中心とする世代の貢献も大きかったように思われる。― 337 ―
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